鳥類写生図(ハヤブサの仲間、明治時代)=国立科学博物館提供●猴(びこう、●はケモノヘンに彌)ノ図(ニホンザル、明治時代)=国立科学博物館提供マルカの図(アカメ、明治時代)=国立科学博物館提供五色鯛写生図(ハナフエダイ、明治時代)=国立科学博物館提供動物写生図(シマアジ、江戸時代)=国立科学博物館提供 国立科学博物館は11日、江戸〜明治期の動物の「博物図」118点が見つかったと発表した。戦中、戦後の混乱などで行方不明になっていた。魚類や哺乳類などが精密に描かれており、この時期の日本の博物学・分類学のレベルの高さを示す第一級の資料という。 同博物館が今春、茨城県つくば市に開いた筑波研究施設に運ぶため、旧新宿分館(東京都新宿区)の資料を整理したところ見つかった。61点は日本画、57点が洋画。江戸時代のシマアジ、明治時代のニホンザルやハヤブサの仲間などが忠実に描かれている。 同博物館の鈴木一
『週刊ダイヤモンド』 2010年2月13日号 新世紀の風をおこす オピニオン縦横無尽 825 民主党の小沢一郎幹事長らの強い指導で推進されているのが外国人参政権法案である。これは民主党の政策集「INDEX 2009」には書き込まれていたが、選挙に際して掲げられたマニフェストからは削除された。同法案の問題点についての国民の理解は進み、危機感も強まっているが、その陰であまり注目されていないのが夫婦別姓法案である。 夫婦別姓法案も、民主党政策集に記載されているが、マニフェストには載っていない。双方共に、日本社会に深刻な負の影響をもたらすと思われ、それだけに有権者の反発を買い選挙には不利だとして、マニフェストに盛り込むのが見送られた経緯がある。 民主党の夫婦別姓法案では夫婦は別姓、子どもは父母どちらかの姓になる、複数の子どもがいる場合、子どもの姓は、父母どちらかの姓に統一するという内容だそうだ
大黒家といえば天丼。 ご飯が見えないくらい大きくどん ぶりからはみ出た海老天丼が人気です。 ごま油だけを使って、キツネ色に揚げた天ぷら。 ちょっと辛めで濃厚なタレは一度食べたら忘れられない 懐かしい味がします。 大黒家天麩羅は明治二十年(1887)、浅草 伝法院通りに、そば屋としてはじまりました。現在の本店所在地と同じ伝法院通りは、人通りが多く、賑やかで繁盛してはいたものの、忙しい割には儲かりませんでした。でも天ぷらそばがたくさん出た日には売り上げが上がります。そこで明治の末にそば屋から天ぷら屋になりました。屋号が「大黒屋」から『大黒家』に変わり店主は四代目となった今も、昔の味をずっと守り続けています。 大黒家から 私達の最も嬉しいことは、調理長をはじめとして長年にわたり仕事に励み、お客様に喜んでいただいていることです。天丼の大黒家は味と心を大切に、努力を続けてまいります。 てんぷらについ
大きなビルが立ち並ぶ中央通りからほんのわずか路地を入ったところに、こんな佇まいを残したお店があるなんて……。しばし自分の目を疑ったほど、“てん茂”は雰囲気のあるお店でした。やっぱり、老舗天ぷら専門店ならではのオーラとでもいうのでしょうか……。こんなワタシでも、さすがに緊張します。けれど、お店に一歩足を踏み入れると、四代目ご主人の奥田秀助さん、そして秀助さんのお父様で先代の宣男さんが、やわらかい笑顔で迎えてくれました。天ぷらを揚げる鍋を囲むように10席が並んだカウンターと、やはり10人ほどが座れるお座敷という、どちらかといえばこぢんまりしたスペースですが、どこかホッとするような居心地のよさが感じられます。 「明治18年、西暦だと1885年、初代茂三郎が日本橋の商店の前で屋台を出したのがはじまりです。明治40年にこの場所でお店を構え、その後3度ほど火災などで建て替えをしていますが、現在の建物
「東京都」と東京特別区23区の制度は、昭和18年、戦時体制下の統制強化のために作られたもので、それまでは東京府・東京市の制度だった。今、地方分権の流れの中でも東京一極集中は止まらず、東京都の人口は現在も増え続けている。 2007年には東京都副知事で作家の猪瀬直樹氏が「東京DC特区」構想を発表したが、これは不十分なものであるとして反対の声が大きい。一方で、23区の中には「特別区」よりも「政令指定都市」として独自の政策を行ないたいという声も上がっている。 そこで、東京都を廃して東京府とし、極めて限られた範囲の政府直轄地を除いて、区を統合して政令指定都市を生み出すアイデアを試みに作ってみた。 あくまでもお遊びではあるが、地方分権が叫ばれている今、その中心にある東京「都」を真っ先にバラしてみるという発想を提案してみたい。 増え続ける東京 「asahi.com(朝日新聞社):東京都、1300万人を突
江戸商人たちが築いた「江戸しぐさ」に学び、 共生文化を実現し、「安心な社会づくり、豊かな人づくり」を目指します。 商人たちは、いかにして抱負、経綸を深め、人生哲学を深めていったのか。本題に戻ろう。 すでに見た時代の変化の中で、商人は自分たちに対する世間の批判に正面から取り組まざるをえなかった。大商人を中心に、自分たちはどう生きるべきか、目覚めるのは当然といえば当然だった。 実は寛政の改革よりはるか前、自分たちのあり方に心した人たちがいた。まず、着目すべきなのは石田梅岩(1685-1744)である。丹波、今の亀岡の農家に生まれた。 11歳で呉服屋に奉公、いったんは故郷に戻った。23歳で再び奉公に出ている。 梅岩が生まれ育った時期は元禄時代の繁栄から崩壊、そして再建の時期に当たる。そうした時代の空気が梅岩にどのような影響をもたらしたのか。ここが勘所である。 京都の借家で、無料講座をはじめたのは
気になる記事をスクラップできます。保存した記事は、マイページでスマホ、タブレットからでもご確認頂けます。※会員限定 無料会員登録 詳細 | ログイン (前回から読む) 唐突ながら、読者は江戸時代が好きだろうか? 歴史小説や映画の数などからすると、幕末動乱を例外として、戦国時代等に比べると一般に人気はいま一つといったところではないか。その理由は、江戸時代はどうも溌剌とした印象が薄くてドラマ向きでなく、息苦しく退屈に見えるからだろう。 江戸時代は本当に好きですか? 実際に、江戸時代後半は人口が停滞し、社会活力もなかった。元禄時代ぐらいまでの江戸時代前半は、戦乱時代が終わって新田開発が進み人口増で活気があったが、幕府は技術革新と社会の流動性を厳しく規制し、社会活力より社会の安定・秩序を最優先した。福沢諭吉が憎んだ「親の敵」の封建時代そのものである。 二度と戦乱を起こさせないためだったが、教科書に
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