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5月25日、オバマ米大統領の広島訪問は、この地が持つ真の歴史的な意味への認識を避けるものとなるかもしれない。写真は原爆ドーム。1998年8月6日撮影(2016年 ロイター/Kimimasa Mayama) Peter Van Buren [25日 ロイター] - オバマ米大統領が、現役の米大統領として初めて、世界初の原爆被爆地となった広島の平和記念碑を訪問する。写真映えのする訪問となりそうだが、この訪問は、この地が持つ真の歴史的な意味への認識を避けるものとなるかもしれない。 ケリー国務長官が4月に平和記念碑を訪問し、それ以前にも2人の米国駐日大使が訪れているが、彼ら同様、オバマ大統領も原爆投下をめぐる主要な問題には触れない方針だ。ベンジャミン・ローズ大統領副補佐官(国家安全保障担当)は以前、大統領は「原爆投下の決定について立ち返ることはない」と述べている。 まれな例外を除き、原爆投下が第2
元広島市長の平岡敬氏(88)に聞く オバマ大統領は再び「核兵器のない世界」に言及したが、手放しで喜んではいけない。米国が「原爆投下は正しかった」という姿勢を崩していないからだ。原爆投下を正当化する限り、「核兵器をまた使ってもいい」となりかねない。私たちは広島の原爆慰霊碑の前で「過ちは繰り返しませぬ」と誓ってきた。原爆を使った過ちを認めないのなら、何をしに広島に来たのかと言いたい。 日米両政府が言う「未来志向」は、過去に目をつぶるという意味に感じる。これを認めてしまうと、広島が米国を許したことになってしまう。広島は日本政府の方針とは違い、「原爆投下の責任を問う」という立場を堅持してきた。今、世界の潮流は「核兵器は非人道的で残虐な大量破壊兵器」という認識だ。それはヒロシマ・ナガサキの経験から来ている。覆すようなことはしてはいけない。
大学1年の時だったから1995年のことだと思う。先輩の下宿に訪ね、偶然一冊の本を手にした。とてもおもしろかったので帰宅途中に書店に立ち寄った。日本人作家の塩野七生氏が書いた韓国版の『ローマ人の物語』の第1巻だった。 その後は自然に彼女のファンになった。2巻目で彼女が描写した「カンナエの戦い」についての説明、4~5巻に出てくるカエサルの描写はあまりに魅力的で何度も繰り返し読んだ。後日。『わが友マキアヴェッリ』、『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』など他の著作も読みふけった。彼女の歴史記述の方法について「英雄中心的史観」とか「全体主義的色彩がある」という批判もあったが、20代の私にはどうでも良かった。今でもソウルの自宅の本棚には、彼女の本が20冊以上(『ローマ人の物語』は15巻の大作だ!)置かれている。 27日、バラク・オバマ大統領の広島訪問を控えて、私の心も忙しなかった。恐れを知ら
現在のアジア情勢と日米関係を勘案すればケリーの行動はおおむね評価すべきと思う。しかしそれでも謝罪してほしいという願望を持つ当事者がいればそれは尊重されるべき。原爆は政治でなく、民間人の虐殺なのだから
原爆投下も化学兵器使用と同じ国際法違反か-。米国務省の定例記者会見で28日、ロイター通信の記者がシリアの化学兵器使用疑惑をめぐり、米国による広島、長崎への原爆投下の例を挙げて軍事介入の正当性について追及した。 米政府はアサド政権による化学兵器使用を断定。この日の会見でハーフ副報道官は国連安全保障理事会による武力行使容認決議なしに軍事介入することを念頭に、多数の市民を無差別に殺害したことが一般的に国際法違反に当たると強調した。 これに対してロイターの記者は「米国が核兵器を使用し、広島、長崎で大量の市民を無差別に殺害したことは、あなたの言う同じ国際法への違反だったのか」と質問。ハーフ氏はコメントを避けた。(共同)安倍首相「アサド政権は道譲るべき」「化学兵器使用可能性高い」と非難
昭和二十年八月九日の太陽が、いつものとおり平凡に金比羅山から顔を出し、美しい浦上は、その最後の朝を迎えたのであった。川沿いの平地を埋める各種兵器工場の煙突は白煙を吐き、街道をはさむ商店街のいらかは紫の浪とつらなり、丘の住宅地は家族のまどいを知らす朝餉(あさげ)の煙を上げ、山腹の段々畑はよく茂った藷の上に露をかがやかせている。東洋一の天主堂では、白いベールをかむった信者の群が、人の世の罪を懺悔(ざんげ)していた。 長崎医科大学は今日も八時からきちんと講義を始めた。国民義勇軍の命令の、かつ戦いかつ学ぶという方針のもとに、どの学級も研究室も病舎も、それぞれ専門の任務をもった医療救護隊に改編され、防空服に身を固め、救護材料を腰につけた職員、学徒が、講義に、研究に、治療に従事しているのだった。いざという時にはすぐさま配置について空襲傷者の収容に当たることになっており、事実これまで何回もそうした経験が
◇1歳半で長崎原爆 東京電力福島第1原発事故は広島、長崎の原爆をはるかに上回る放射性物質を拡散させたが、東電と政府の情報伝達や住民避難への対応が遅れ、多数の人々が被ばくした。「放射能の恐ろしさが分かっていながら、すぐに知らせなかった罪は大きい」。「府原爆被災者の会」常務理事の真柳タケ子さん(67)=城陽市=は憤る。1歳半の時に長崎の爆心地近くで被爆し、生後5カ月で長男を亡くした真柳さんに、被爆体験や今回の原発事故への思いを聞いた。【太田裕之】 真柳さんは長崎市稲佐にあった自宅で被爆した。爆心地から1・8キロ。買い出しに出ようとした母吉(きち)さんに玄関の土間で靴を履かせてもらっていた時だった。とっさに吉さんが覆いかぶさり、真柳さんにけがはなかったが、吉さんは落ちてきた柱を背中に受けたため、ケロイドが残った。外に干していた布団は真っ黒焦げ。「外に出ていたら助からなかった」と語る。 その後は、
印刷 米空軍のミサイル発射担当将校向けに「核の倫理」を説く講義資料は、広島への原爆投下にも触れているが、当時の米兵死者数の多さなどを挙げて正当化した=「軍における信仰の自由財団」提供 米空軍が、有事の核ミサイル発射を担う将校向けの訓練の一環として、キリスト教の「聖戦」論を20年以上にわたり講義してきたことがわかった。「憲法の政教分離原則に違反する」との指摘を受け、今年7月末に突然、取りやめていた。 米国と旧ソ連・ロシアの間では、冷戦末期から核軍縮が進展。核保有の必然性や使用の可能性は薄れてきた。民主的な議論とは無縁の「神話」によって、核の道義的な正当化を試み、延命を図ってきたことに、懸念の声が出ている。 問題の講義をしていたのは、カリフォルニア州にあるバンデンバーグ空軍基地。ミサイル発射を担当する空軍の将校は全員、この基地で核について訓練を受ける。憂慮した複数の軍人から通報されたNP
「8月9日」の長崎平和祈念式典に、トルコのイスラム教指導者が初めて出席することになった。宗派を超えた宗教者でつくる「県宗教者懇話会」(野下千年会長)が11日、長崎市の田上富久市長に報告した。祈念式典前日の8日にも、同懇話会の第39回原爆殉難者慰霊祭にも参列する。 昨年10月、トルコで開いた「ヒロシマ・ナガサキ原爆展」を機に、同懇話会が同国を訪れ、指導者らに面会したのがきっかけ。宗教を超えて慰霊祭を開いていることを説明すると、強い関心を示したという。 野下会長は「世界のいろいろな紛争や戦争の背景に宗教対立があると思われている。だが、平和について考える時、世界は一致しているとの私たちの思いを受け止めてくれた」述べた。田上市長は「小さいけれど(平和のための)大きな突破口。励まされる思い」と歓迎した。 〔長崎版〕
被爆者手帳申請却下で韓国人4人が長崎市を提訴へ 長崎で被爆しながら、証拠内容が不十分という理由で被爆者健康手帳の交付申請を長崎市に却下されたのは不当として、韓国在住の張令俊(チャンヨンジュン)さん(81)が、同市に却下処分取り消しを求めて長崎地裁に提訴していたことが28日、分かった。今後、長崎原爆に遭った韓国在住の3人も追加提訴する予定。 3人は金勝男(キムスンナム)さん(66)と、郭福南(カクポクナム)さん(82)、豊子(プンジャ)さん(72)姉妹。張さんは5月17日に提訴した。在外被爆者支援連絡会によると、海外在住者が「被爆者」の証明自体を争点に、手帳の申請却下処分取り消しを求める訴訟を起こすのは初めて。 地元の民間団体、韓国原爆被害者協会に所属する約2600人のうち、現在、手帳を取得できていない韓国人は141人。今回の訴訟はこの先陣を切る形だが、4人を除く137人は広島で被爆し
ルース駐日米大使は26日、就任後初めて被爆地・長崎市を訪問した。駐日米大使の長崎訪問は4人目で、1994年のモンデール大使以来16年ぶり。ルース大使は長崎原爆資料館(同市平野町)を見学した後、爆心地公園(同市松山町)にある原爆落下中心地で献花した。 ルース大使は資料館で「深く心を打たれた。核兵器なき世界を求めるオバマ大統領の決意の重要性を強く認識した。長崎の不屈の精神を見せていただき感謝している」と記帳し、内容を読み上げた。 【関連記事】 〔終戦特集〕太平洋戦争の歴史を振り返る 【特集】日本の航空母艦〜赤城、加賀、飛龍、鳳翔〜 【特集】世界の航空母艦〜米ニミッツ級から中国の空母建造計画まで〜 【特集】沖縄と米国海兵隊〜ペリーと黒船でやって来た海兵隊〜 【特集】米国海兵隊兵器総覧〜沖縄に配備されているのは?〜
9日は長崎に原爆が投下された日。先日のNHKで被爆当時の浦上天主堂の写真記録が紹介されていた。それは何か地中海あたりにありそうなギリシャ時代の遺跡のようでもある。 浦上天主堂は 1958年(昭和33年) 被爆した天主堂は翌年までに瓦礫を撤去し整備されたが、一部外壁の廃墟などは原爆資料保存委員会等の要請で被爆当時のまま仮保存されていた。保存の市民運動が起こり、長崎市議会も保存を決議したが、結局は撤去され、遺構の一部は近隣の平和公園内に移設された。 浦上天主堂遺壁(爆心地公園)※貴重な原爆遺構の破却に至った経過については2つの事情があった。 1.浦上教区の信徒で編成された「浦上天主堂再建委員会」は現地に再建を決定、信徒からの浄財及び寄付金によって再築計画を明らかにする。だがその動きを覚知した原爆資料保存委員会は、『旧天主堂は貴重な被爆資料である故に遺構を保存したいので、再建には代替地を準備する
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