太平洋戦争の当初、日本軍は広大な地域に進出した。 しかしアメリカを中心とする連合国軍はアジア太平洋の島を次々に制圧。 日本の「絶対国防圏」を突破して日本本土に迫った。 日本軍は沖縄に10万の兵を集め、本土への侵攻を食い止めようとした。
沖縄戦から77年。多くの住民が戦禍に巻き込まれ、おびただしい犠牲者を生んだ。二度と同じ過ちを繰り返さないように。大切な命を犠牲にしないように…。戦争体験者が少なくなる中、私たちは戦争を生き延びた人々の体験、思いを子どもや孫たちに伝え、つないでいく。 琉球新報と信濃毎日新聞はアジア太平洋戦争の教訓を未来に伝えるため、連携した紙面づくりに取り組んでいる。沖縄戦を指揮した第32軍が拠点とした首里城地下の第32軍司令部壕と、この間、本土決戦に備えて造られていた長野市の松代大本営壕。二つの壕を通じ、当時の国体護持・軍国主義優先思想が沖縄を犠牲にし、多くの人々の生命を奪った事実や背景に迫る。 ▼記事を読む
総務省の「全国戦災史実調査報告書」には沖縄戦の記載がない 政府は「理由不明」と回答。那覇10・10空襲の犠牲者数も把握せず 照屋衆院議員は「戦争の記憶継承が問われる中、無責任」と批判
沖縄戦の組織的戦闘が終結してから69年がたった。戦没者の名前を刻む「平和の礎」(糸満市摩文仁)には毎年、一人ひとりの新たな名前が刻まれる。今も、どこで、どのように亡くなっていったのか、分からない人たちがいる。 沖縄タイムス社は、激戦地だった具志頭村(現八重瀬町)出身者の死亡地域を落とし込んだ地図から、彼らの足跡をたどった。地図は戦没者名簿を基に、GIS沖縄研究室(渡邊康志主宰)が作成。米軍が上陸後の4月から戦闘終了の7月にかけての時系列と、具志頭、新城、後原、港川の出身字ごとの戦没地分布図を公開する。 彼らの足取りは、沖縄国際大学の吉浜忍教授に解説してもらった。 戦後に生きる者として、生きることができなかった声なき声に耳を傾け、彼らが残した足跡をたどる鎮魂のグラフィックとする。 1945年3月23日、米軍が上陸に備え、沖縄本島への爆撃を開始した。硫黄島で日本軍が全滅し、大本営が沖縄作戦に重
旧日本軍 沖縄での軍法会議、性処罰ゼロ Tweet 目録の一部。氏名の欄は黒く塗られている [画像を拡大] 林教授らが入手した「第32軍臨時軍法会議処刑者目録」の表紙 [画像を拡大] 社会 2013年3月26日 10時37分(5時間35分前に更新) 首里を拠点に沖縄戦を指揮した第32軍の軍法会議処刑者目録を、関東学院大の林博史教授と佐治暁人講師が入手した。1944年6月~45年2月に開かれた軍法会議で処罰されたのは48人で、最も多かった罪は「逃亡」で18人だった。性犯罪はゼロだった。別の軍の資料では当時、強姦(ごうかん)などの性犯罪が横行していたことが分かっており、林教授は「軍は、逃亡や上官に対する反抗など、軍紀に関わる犯罪は厳しく罰したが、住民に対する犯罪には厳正に対応していなかったことが分かる」と指摘する。(高崎園子) 厚生労働省が所蔵する資料を林教授らが情報公開請求した。第32軍の軍
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