池田大作氏に初めてあいさつした時、「記者は怖いねえ。でも本当はね、私も新聞記者になりたかった。ものを書く人になりたかったんですよ」と言われた。文学好きで文章が得意な少年だった。実家は貧しく進学は諦め、長く結核を患った。創価学会第2代会長の戸田城聖氏の出版社に勤め、21歳の時、雑誌「冒険少年」の編集長になった。自らもペンネームで偉人伝を書いた。夢に見た仕事だったが、経営難で雑誌は休刊。池田氏は一転「最も向いていない、やりたくもなかった」金融の仕事を担うことになる。その無念は後の人生にも残り、池田氏の人生の熱源にもなった。 事業の失敗で大半の部下を失った戸田氏と、赤貧の中で語り合ったのが、新聞をつくろう、大学を開こう、政治を変えよう、世界の指導者と語り合えるようになろう、という夢だった。後日、池田氏はこのすべてを実現する。 草創期の創価学会は正邪の闘いを理念に激しい折伏(しゃくぶく)と布教活動