ある月刊誌から上野千鶴子と対談して、「おひとりさま」問題について議論してくださいというご依頼があった。 上野さんと対談してくれという依頼はこれまでも何度もあった。 どれもお断りした。 繰り返し書いているように、私は論争というものを好まないからである。 論争というのはそこに加わる人に論敵を「最低の鞍部」で超えることを戦術上要求する。 それは「脊髄反射的」な攻撃性を備えた人間にとってはそれほどむずかしいことではない。 あらゆる論件についてほれぼれするほどスマートに論敵を「超えて」しまう種類の知的能力というものを備えている人は現にいる(村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』でそのような人物の容貌を活写したことがある)。 それは速く走れるとか高く飛び上がれるとかいうのと同じように、例外的な才能である。 でも、そのような才能を評価する習慣を私はずいぶん前に捨てた。 そのような能力はその素質に恵まれた人自
あまり理詰でもの考える人の意見はあてにしないようにしている。特に微に入り細に入り細かいところまで理屈で整理しようとする人は要注意だ。もちろんそういう風な人の意見は筋が通っているし、一見、正しいことが多い。しかし正しいからといってそれが現実的に適しているかというと必ずしもそうでない。現実とは、往々にして筋が通っていないのだから。 理論的な整合性をとろうとすれば、そこには「閉じた環境」を想定しなければならない。不確定要素や外部環境の変化、人と人との感情面での関係、建前と本音といったノイズを排除しなければならないからだ。しかし現実はどちらかというとノイズに満ち溢れている。どかどかうるさいR&Rバンドだらけ。 そんなものをイチイチ理詰で潰していってもキリがない。潰せば潰すほどノイズが発生し、小さいノイズで元よりうるさいんじゃないかというほど。 じゃぁ、「理屈」がいらないかというとそうではない。論理
(前篇)の続き 身体化された認知は思考についての考えの数世紀をひっくり返す。蒸気機関が目新しい機械であった時代に生きていたデカルトは、体(つまり頭)の中を生きた液体が動いているポンプであるかのように脳を見ており、どの時代でも人の認知システムをその時代のハイテクで説明する傾向があった。しかしデカルトは心とは別の何かであり、松果腺を通して体と交信する実体のないものだとした。 1940年代の最も有名なフランスの哲学者モーリス・メルロー・ポンティのような少数の思想家がデカルトの心身分離に挑戦しましたが、デカルトのモデルは20世紀を通して優位なモデルとして残り、時と共にその型が発展し、第二次世界大戦後の数年間での近代コンピュータの開発の後に、これがモデルの新しいバージョンとして採用されました。コンピュータとしての脳とそこで走るソフトウェアとしての心というモデルの採用。 しかしながら、1980年代にあ
原文:"Don't just stand there, think"The Boston Globe,January 13, 2008 最近の研究によって、私たちは脳だけで考えているのではなくて体でも考えてると分かってきた。 あなたが、紛らわしい文書を読んでいたり、クロスワードパズルを解いたり、鍵のありかを思い出そうとしたりしているとき、自分の体を使って何かしてますか?座ってる?立ってる?歩いてる?手で何かいじくってる?独特のパターンで目をさまよわせている? この質問にどう答えるかで、あなたが読んでいる物や解こうと悩ませている物や取り戻そうとしてる鍵などの問題を解決するのにどれくらい時間がかかるのか分かるのです。 脳はよくコンピューターのようなものに見立てられるに対して、体は万能の道具であるかのように見立てられます。しかし、近頃の体に関する研究によって脳と体はもっと協調的に働いていると分か
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