「高度な社会は、それにふさわしい高度な人間を要請する」。 それが言い過ぎだとしたら、「高度な社会に適応するためには相応の能力や特性が求められ、足りなければ支援や治療の対象になる」と言い直すべきでしょうか。 少し前に「SNS上では境界知能という言葉が悪口的に用いられている」といった話が盛り上がったようですね。 president.jp リンク先で述べられているように、知能指数はその人の生きづらさを探る手がかりとして用いられるもので、そうして算出された境界知能も、支援の見立てに用いるための語彙なのでしょう。そしてリンク先では、境界知能という言葉を時代遅れにする動向にも触れられています。どんな言葉にも全人的な否定のニュアンスをとりつけたがりなインターネット民の挙動を見ていると、境界知能という語彙を消すべきだとする人々の考えにも同意したくなります。 そうした語彙の汚染問題はさておき、境界知能や知的
「多様性」という言葉は、市民権を得たように感じます。 行政は言うに及ばず、多くの会社で多様性の尊重は重視されているはずです。多様性ではなくダイバーシティ(diversity)と表記している企業もあるでしょう。 基本的に、多様性は素晴らしいと思います。素晴らしいと言う他ありません。 多様性の概念は、人権の概念と極めて親和性が高いため、それを否定するのは大変に困難であるどころか、人間のクズの烙印を押されても文句が言えない雰囲気があります。 また、多様性はLGBTの話題の中もでよく見かけます。こちらのとの親和性も格段に高い。 自分と相手は違う存在である。であれば、自分と相手の差異を認めなければならない。それは全人類共通の認識でしょう。 宗教等を別にすれば、これを真っ向から否定するのは難しいと感じます。 そうして、多様性という概念はしっかりと日本にも定着しました。 しかし、あまりに便利な概念には、
グローバル化する現代において、「異文化への理解」が重要であるということは、ほとんど自明の前提として扱われています。 たしかに、異文化に対する知識を持ち、自分とは異なる文化的背景を持った相手が大切にしていることは何か、されてうれしいことは何なのか、あるいは絶対にしてほしくないことは何かなどを学ぼうとする姿勢が重要なのは、いうまでもないことのように思えます。 しかし、「異文化への理解」が大事だと繰り返す人が、見落としがちな視点というものが一つあります。 それは、「自分が「理解」するよう努めたからと言って、相手も同じようにしてくれるとは限らない」ということです。 ある日やってきたツノつき異星人の話たとえばこんな架空の世界のことを考えてみます。 宇宙人の難民が、宇宙船に乗って地球に不時着してきたとしましょう。彼らはみな全身が緑色で、額に大きなツノをつけた、地球人とは似て非なる異星人です。 地球人は
正しい多様性のあり方として、時折こんな絵が流れてきます。 https://twitter.com/piti_piti_/status/1261315731527876609?s=20&t=Qd-FR1fbkOPmD4OMLOeOlw より多様性という確かにに同じ比率の人種性別の構成を押し付けられがちですが、「実はそれって、ちっとも多様ではないのでは?」という話です。 でも僕は、この望ましい多様性すらも、本当の意味での多様性とはかなり異なっている気がします。 ※このマガジンでは、読者の皆さまの役に立つ視点の提供を心掛け、シリコンバレー、フィリピン、日本の3拠点でビジネスをする中で得た気づきを書き綴っています。この記事は単品で300円ですが、月1000円で定期購読すると、1ヶ月20本くらい読むことができます。
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