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デリダに関するsakstyleのブックマーク (12)

  • Toward the Sea : エクリチュールとフィクション  (デリダ、蓮實重彦、あるいはロラン・バルト)

    読書ノート(ほとんど引用からなっています)蓮實重彦は2005年5月、ソウルで開催された「世界文学フォーラム」(テーマ:平和のために書く)での講演で冒頭の簡単な導入後、次のように語り出す(「『赤』の誘惑」をめぐって)。 「葛藤」や「無秩序」への私の執着は、言語をめぐるごく単純な原則に由来している。それは、ある定義しがたい概念について、大多数の人間があらかじめ同じ解釈を共有しあってはならないという原則にほかならない。とりわけ、文学においては、多様な解釈を誘発することで一時の混乱を惹起する概念こそ、真に創造的なものだと私は考えている。そうした創造的な不一致を通過することがないかぎり、「平和」の概念もまた、抽象的なものにとどまるしかあるまい。 このように述べた後、《「フィクション」という単語の意味をめぐる大がかりな不一致》を取り上げる。今日の理論的な考察の基盤にある西欧的な思考にとって、「フィクシ

  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    仲春はゆっくりと通り過ぎる 寝て起きたら3月である。今日の東京の最高気温は20度を超えている。正月のインフルエンザが完治して、これでやっと健康で文化的な年度を始められるぞ、と意気込んだのも束の間、今度は原因不明の高熱を出して1週間寝込んだ。 脳がグツグツ煮える音が聴こえそうなほど…

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    sakstyle
    sakstyle 2008/03/22
    私はここにJ・Dはデリダであり、サリンジャーであるという多義性を見出すのです。
  • ニコニコ動画にあがっている哲学系動画たち - 荻上式BLOG

    以前「動く思想家たち(海外編@youtube)」というエントリーを書いたけれど、ニコニコ動画内にも思想家動画がたくさんあったので、いくつか紹介。「哲学」などのワードで検索して、「再生が少ない順」で並べると見つかりやすいという罠。ちなみに「こういう海外の動画や記事を訳して紹介してくれるサイトがあればいいのにな〜」と思っている方もいらっしゃると多いのでは。chikiもその一人。だから今度、そういうサイトをシノドスで作ることにしました。詳細はまた今度。メールマガジンと合わせて、乞うご期待。 ジョルジョ・アガンベン講義 「The Power and the Glory」(続きあり) ソール・クリプキ講演 「The First Person」(続きあり) ドゥルーズの「Abe'ce'daire - Animal(動物)のA」(続きあり) ジャック・ラカンの「LES DEUX SEXES」(続きあり)

    ニコニコ動画にあがっている哲学系動画たち - 荻上式BLOG
  • http://under.the.velvet.jp/?eid=624967

  • 書籍出版 双風舎:【連載】「思想の死相」

    「死」のエクリチュール ■第4回■ ●「死」を与える 後期のデリダに、『死を与える』というがあります。これも「責任」論の文脈で書かれたものです。このの主題は、キルケゴールが強く関心を持った旧約聖書創世記に出てくるアブラハムの「イサク奉献」です。旧チェコスロヴァキアの反体制活動家で哲学者のヤン・パトチカも、このエピソードについて論考を残しており、デリダの議論はパトチカのそれを受けたものです。 その時代の義人であり、神の歴史の主人公であったアブラハムには、子孫が大地の塵のように増えるであろうという約束を神から与えられていましたが、正であるサラとのあいだには、なかなか子どもが産まれません。アブラハムもサラも年老いたころ、ようやくイサクという子どもを奇蹟的に授かりました。ところが神は、子どもを授かったアブラハムに「汝のイサクを供え物として捧げよ」と命じます。神の約束と命令が矛盾していますね。

  • 書籍出版 双風舎:【連載】「思想の死相」

    「死」のエクリチュール ■第3回■ ●「責任=応答可能性」の問題 後期のデリダの思想では、「責任」概念が重要だということは、高橋哲哉さんがいろいろなところで強調しているので、知っている人も多いと思います。「責任」を意味する英語の〈responsibility〉は、語のつくりから見ると、「応答 response」する「可能性 -ability」ということです。自分以外の誰か(他者)に対して「応答」するということですね。「他者」から、ある出来事について、何らかの問いかけがあった場合、それに対して「答える」べき立場にいること。あるいは、「答える」準備をしていること、というのが西欧の言語における「責任」の原義です。 後期のデリダは、『死を与える』をはじめ、いくつかのテクストで、(他者に対する)「責任」とはどういうことかを徹底して考えています。彼の思考を私なりに説明すると、以下のようになります。〈r

    sakstyle
    sakstyle 2007/08/31
    レスポンシビリティとは受動的なもの/「自分でも意識しないうちに、他者がいつの間にか迫ってきていて、その他者に対してよいことをやるとかやらないとか意識していないうちに「応答」してしまう」
  • 書籍出版 双風舎:【連載】「思想の死相」

    「死」のエクリチュール ■第2回■ ●エクリチュールによって「生かされる」物たち 話をもう一度、「音声中心主義」に戻します。人間が生活していて“自然”と発する「生の声」がオリジナルであり、「生の声」こそが私たちの“当の気持ち=魂の叫び”を映し出す、まじりっけのない透明の媒体であるとしましょう。すると、それを無理やりかたちだけ記録するエクリチュールというものは、魂が抜けたあとの抜けがら、いわば「死骸」のようなものですね。 多くの人は、何となく、エクリチュールはあまり生き生きしていないと思って、物足りなさを感じます。屋さんでトーク・イベントなどが開かれるとき、「生・宮台を見る」とか、「生・東浩紀を見る」という人がいます。そういう言い方をするのは、死骸であるエクリチュールからはうまく伝わってこない、宮台さんや東さんの生き生きした“当の声”=「当に言いたいこと」を聞きたいという願望を、聴衆

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    sakstyle 2007/08/31
    エクリチュールとリプリゼンテーションと形而上学批判
  • 書籍出版 双風舎:【連載】「思想の死相」

    「死」のエクリチュール ■第1回■ ここまで取り上げてきたアドルノ、ベンヤミン、そしてアーレントが、ドイツ出身の思想家であり、ドイツの思想・哲学史を背景に言論活動したのに対し、デリダはフランスの思想家です。ただし、彼もユダヤ系です。しかも、長いあいだフランスの植民地だったアルジェリアの生まれです。「イスラム圏の中にあるフランスの植民地に生れたユダヤ人」という複雑なアイデンティティを背負っているわけですね。彼の少年期には、フランス国がナチス・ドイツに占領された煽りを受けて、アルジェリアのユダヤ人たちは、植民地当局によって、公民権を剥奪されています。そして、一九五八年にアルジェリアが独立したことにより、彼の生まれ育った土地は、フランスではなくなりました。 そうしたポストコロニアル的な体験が、多かれすくなかれ、彼の特異な文体や哲学、とりわけ文芸批評の素養のあるフランス人にさえ何をいわんとしてい

    sakstyle
    sakstyle 2007/08/21
    エクリチュールってそういうことか
  • 動く思想家たち(海外編@youtube) - 荻上式BLOG

    youtubeにアップされている思想家の動画を集めてみた。動画を見ると、思想家のイメージも変わるかも? マーシャル・マクルーハン(検索結果) ジル・ドゥルーズ(検索結果) エドワード・サイード(検索結果) ウンベルト・エーコ(検索結果) スラヴォイ・ジジェク(検索結果) ジャック・ラカン(検索結果) チョムスキー×ミシェル・フーコー(検索結果) ロラン・バルト(検索結果) ジャック・デリダ(検索結果) マルティン・ハイデガー(検索結果)

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  • 宮坂和男『哲学と言語 フッサール現象学と現代の言語哲学』 - 生きてみた感想

    哲学と言語―フッサール現象学と現代の言語哲学 (広島修道大学学術選書) 作者: 宮坂和男出版社/メーカー: ナカニシヤ出版発売日: 2006/12メディア: 単行 クリック: 15回この商品を含むブログ (4件) を見る 大まかに言えば、このでは三つの作業がなされています。 1、フッサールの現象学の核心部分を検証していくことで、その限界地点を探り当てていく。 2、その限界地点を引き受けて新たな領域を切り拓いていった存在としてデリダを見出していく。 3、デリダの問題点を指摘し、今後の課題と思われるものをおずおずと提示する。 と、こういった議論の流れは明らかに「デリダの可能性の中心」的なところに焦点を当たてているわけなんですが、このがとても興味深いのは、宮坂氏が明らかにフッサーリアンとして、フッサーリアン的な議論の手順から出発することでこのような議論を行なっている、という点です。普通、そ

    宮坂和男『哲学と言語 フッサール現象学と現代の言語哲学』 - 生きてみた感想
  • エロフィギュア&エロ漫画 レビュー 【乳之書 】

    ⇒悪の組織でサクセス! 乳魂の痛快出世巨乳フェチ小説、『揉ませてよオレの正義2』! 2013年5月17日発売! アマゾンで予約中! ⇒原作者自らのノベライズ『巨乳ファンタジー2』発売! 2012年9月28日発売! ⇒なぜ、アニメや漫画は表現規制を受けるのか? なぜ、オタク腐女子は叩かれるのか? そこには、性と資主義の問題が横たわっている。婚活オタクの問題はつながっているのだ。表現規制が全国的に強化されようとしている今こそ必要な、オタクのための知的防衛。 存在論的、郵便的 1983年、『構造と力』。 1998年、『存在論的、郵便的』。 そして、2006年。なぜ今更だが、敢えて今なのだ。 『構造と力』を引っさげて浅田彰が思想界のスターとなってから15年後。新たなスターに思想界は沸いた。 東浩紀である。 『存在論的、郵便的』は、著者が東京大学在学時、わずか23歳から26歳の間に処女作とし

    sakstyle
    sakstyle 2006/11/02
    『存在論的、郵便的』のレビュー・解説。ハイデガーのあたりがわかりやすかった
  • なぜ「デリダ的脱構築」は不可能なのか? - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    神話的暴力と神的暴力 「正義の門前:法のオートポイエーシスと脱構築」馬場靖雄 (http://www.thought.ne.jp/luhmann/baba/gj/gj00.html)を参照に、ベンヤミンの「暴力批判論」、デリダの「法の力」による暴力論を考える。 ベンヤミン「暴力批判論」では法の暴力を、「神話的暴力」と「神的暴力」に分けている。 ・神話的暴力・・・何らかの目的のために行使される暴力 法維持的暴力・・・現存の法秩序を再生産する 法措定的暴力・・・空白状態のなかから新たな秩序を立ち上げる ・神的暴力・・・何ものをも目的としない暴力 いっさいの領域で神話が神に対立するように、神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない 「暴力批判論」 ベンヤミン 前者(神話的暴力)

    なぜ「デリダ的脱構築」は不可能なのか? - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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