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ベンヤミンに関するsakstyleのブックマーク (6)

  • ワルター・ベンヤミン 1939 「技術的複製可能性の時代の芸術作品 」 (3) - Jablogy

    (2)へ、はじめから読む方はこちら(1)へ ■考察 下部構造が上部構造の影響、因果関係の不分明 死に舞さん(@shinimai)も いろんなとこで言ってるけど、ベンヤミンのアウラは認識論的な話と複製に関わる存在論的はなしごっちゃにしているから使えない。 http://twitter.com/shinimai/status/64677464487632896 とおっしゃっていた。これと重なりつつも少しずれるかもしれないが、私にはこの議論は因果関係が不明確なように思われる。 史的唯物論と神秘主義のコンビネーションがベンヤミンの特徴であり、一応写真や映画の登場によって認識の条件が変わったという論旨ではある(下部構造が上部構造に先駆ける)。 が、そもそもそれらが登場するきっかけ・要因も大衆化という社会状況による部分が大きいので、よく考えるとどちらが先行する要因であるかは不分明であるといわざるをえな

    ワルター・ベンヤミン 1939 「技術的複製可能性の時代の芸術作品 」 (3) - Jablogy
    sakstyle
    sakstyle 2011/07/25
    「希少性や複製不能性にもとづく礼拝価値と、作品や演者自身が持っている魔術的な影響力、この二つはつい混同しがちであるが、分けて考えたほうが良いかもしれない。」
  • God & Golem, Inc.

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    sakstyle
    sakstyle 2008/06/19
    http://d.hatena.ne.jp/gginc/20080613/1213324974#c1213756897 の10の問いに、答えることは可能か。
  • ニートホープ - 繰り返しの中の一回性、アウラと批評の現在

    先日の日記で紹介した新宿ゴールデン街劇場のお芝居の模様が紹介されてた。 →■ 楽しい芝居だったようで見にいけなかったのが悔やまれる。芝居はホントにその時その場の一回限りだからなぁ。5回公演があったとしてもその5回の繰り返しそれぞれで違う味わいや感触を得ることができると思う。まぁ5回全部見る観客はなかなかいないだろうがw 今後の活躍を遠くから期待しております。 ■「アウラ」を巡って 芝居は完璧にコピーしてくり返すことはできない。その時その場の空気、役者のリズム、聴衆の反応…色んな要因が重なり、その「一回性」のようなものが生まれる。いわゆるベンヤミンさんが『複製技術時代の芸術 (晶文社クラシックス)』で考えた「アウラ」ってやつがまだ生きてるように感じるわけだ。 「アウラ」はオーラとも言い換えられるかもしれないけど、なんだかスピリチュアルな江原啓之の某TV番組を思い出すからやめとくよ! ところで

    ニートホープ - 繰り返しの中の一回性、アウラと批評の現在
    sakstyle
    sakstyle 2007/07/10
    批評とはアウラを翻訳すること/でも、アウラってよくわかんないんだよなー
  • 書籍出版 双風舎:【連載】「思想の死相」

    「進歩」は「回帰」であることへの「目覚め」 ■第4回■ ● 「目覚め」のための論理 ナチスの時代にユダヤ人として生きたベンヤミンの言説には、政治的な部分もあります。芸術や美についてのニュートラルな分析をしているように見えて、じつはマルクス主義者・唯物論者として、ナチスに抵抗するポリティクスを試みていることもあります。抵抗しようとする場合、ある程度は、相手方であるナチス系の思想家と問題意識が共通してくる部分もあります。社会的に「美」として通用しているものをどのように解釈するか。“右”に都合よく解釈するか、“左”に都合よく解釈するか。そういうようなところで、左右の接点が生まれてきます。ベンヤミンが左寄りの解釈をしようとしていることがよくわかるのが、写真やレコード、ラジオ、そして映画など、「現実」を機械的に「複製=再生産」する技術を応用するかたちで生まれてきた新たな芸術と、その「可能性」について

    sakstyle
    sakstyle 2007/06/30
    『複製技術時代の芸術作品』について/ベンヤミンは、映画というものが、あまりにもこれ見よがしに作為的なので、それを見た人びとが、自分たちの幻想にベタさに気づくのではないかと考えたわけです。
  • なぜ「デリダ的脱構築」は不可能なのか? - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    神話的暴力と神的暴力 「正義の門前:法のオートポイエーシスと脱構築」馬場靖雄 (http://www.thought.ne.jp/luhmann/baba/gj/gj00.html)を参照に、ベンヤミンの「暴力批判論」、デリダの「法の力」による暴力論を考える。 ベンヤミン「暴力批判論」では法の暴力を、「神話的暴力」と「神的暴力」に分けている。 ・神話的暴力・・・何らかの目的のために行使される暴力 法維持的暴力・・・現存の法秩序を再生産する 法措定的暴力・・・空白状態のなかから新たな秩序を立ち上げる ・神的暴力・・・何ものをも目的としない暴力 いっさいの領域で神話が神に対立するように、神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない 「暴力批判論」 ベンヤミン 前者(神話的暴力)

    なぜ「デリダ的脱構築」は不可能なのか? - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
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