予告していた佐藤友哉論文、「セカイ系の終わりなき終わらなさ――佐藤友哉『世界の終わりの終わり』前後について」、が、限界小説研究会編の『社会は存在しない』に掲載されて6月(予定)に出ます。この論文が書きたくて佐藤さんに会いたいという欲望から、ザクティ革命が始まったのです。本来『Xamoschi』に入れるべきであったでしょうか。佐藤友哉を通し、何故セカイ系は北海道を舞台にするものが多いのか、という問題に答えようとしています。過去の佐藤友哉論文と比べても、総合的な佐藤友哉論になっているのではないかと思います。 個人的な思い入れを語れば、実はこれは商業媒体でまともな枚数で書く、デビュー論文以来の論文でした。(「ひぐらし」論とは書いた時期と掲載が前後しています)これがうまく書けないと、自分はもう終わりかもしれないと思いながら必死に書いたものです。だから割と実直な文学研究的なアプローチをしています。ゼ
「プラグマティズムについて一言」という最近の記事にトラバがついていて、僕の議論には「ほとんど納得しなかった」とわざわざ言ってきている。そういえば、前に「おまえ、トラバ読んでるのか?」と知り合いに訊かれたことがあるのですが、いや、まぁ、もちろんぜんぶ読んでますよ!(笑)。ただ今回は、批判的な意図で送ってきてるんだろうし、僕自身の書き方がよかったとも思えないので、ちょっと別のやり方で補足しておきたいと思います。ナディアの話は、またいずれ。 * 僕がことさら渡邉大輔氏の議論を批判したのは、(A)彼がセカイ系に関する論文で『波状言論』からデビューしたひとであり、かつ(B)今回の論文ではセカイ系のフラットさが「プラグマティズム」という語に言い換えられ、(C)しかもそのフラットな現実を食い破ることで「21世紀」の「公共性」に向かうことができる、と論じられていたことに由来する。 まず、僕は(B)の
わたしがいま注目している狭義のセカイ系諸作品は、世紀末「前」のセカイ系としての「エヴァ」と「エイリアン9」、世紀末「後」のセカイ系としての「サイカノ」「エデン」、このよっつである。このうち「エヴァ」と「サイカノ」がその後のセカイ系の「父」と「母」として選択され、その劣化コピー「ゲド戦記」にてひとまず「狭義のセカイ系」が終了した、と考えている。 宇野常寛氏のセカイ系批判は、どちらかというと<ゼロ年台後半にて><狭義の「セカイ系」的想像力をもつこと>にむけられている。だから、その批判を援用しつつ、ゼロ年代前半のセカイ系の文化史的意義を批判的に検証することは可能だと思う。氏の批判は「惑星開発委員会」にて繰り返されてきたことで、状況論としては的をえているように思う(積極的に反対する立場ではない)。 ただ、かれの批判がストライクにあてはまる仮想敵が、論理のレベルではじつは「ゲド戦記」にとどまると
絵の超初心者ド下手くそ人間が、20日間絵を描いて感じたこと わたしは、「文の人」だ。絵を描くのは大の苦手。 そんなわたしが、ひょんなことから絵を描き始めた。 そうしたらおもしろくなって約20日間、なにがしかを描きつづけている。 未知の領域での挑戦は、発見が多い。 また、ここまで絵を描けない人間の挑戦は、あまりネッ…
精神的デフレスパイラル。そういうものがある。 慢性的飢えに侵されている人間の基礎代謝が減っていくように、欲望というものもそれを満たすことができなければ逓減していく。で、欲望を基礎にした行動力も逓減する。ので、さらに行動力によって充足される欲望が逓減する。以下スパイラル。 これを続けていくと、やがては生きているという最低限の欲望すら維持することが困難になる。欲望の代わりとなる外的な規律や環境による行動のスキームがそこに存在していればロボットとして生きていくことも可能だが、そうしたものすらなくなってしまうと、もう、死んでしまうしかない。 そうならないようにも、手の届く範囲の欲望はがめつくゲトしていくべきだし、若干がんばれば手が届く欲望は欲望し続けるのが、楽しく生きていくために重要ではあると思う。スノビズムというのは生きるための活力源になるということなのだ。 んと、哲学的ゾンビの実際的な問題点が
今日は七夕。素麺の日でもあるらしいのだけど、ぼくはこの歳になるまでそれを知らなかった。本当にどうでもいいことですね。 それはそうとして。 id:sunagiさんの、坂口安吾の書くヤンデレが最強に強まっている、という指摘は面白かった。そういう視点で読んだことはなかったので。ぼくの想像力はせいぜい「山月記」の李徴をツンデレ図書館少女と読む程度。でも、今でもちょっと未練があるかな。あのアイデアは。 それで思い出したことなど。 シロクマさんが図書館少女に萌えるヲタの心理を痛罵していたけど、ぼくの場合図書館少女というのは内に強いパトスと主体性を秘めながらそれを隠している/隠さざるを得ない存在、として――つまりはノートに「僕の爆弾」を書き込んでしまうような類の、肥大した自己を拘束する/あるいはそれを安全な方向に解放するためにやむなく文字の世界に逃げ込んでいる(まかりまちがうと黄薔薇革命ならぬゲバラ革命
宇宙ヤバイ。正確にはぼくの中の小宇宙がヤバイ。具体的には人体――その驚異の小宇宙――の一部であるところの胃が。1日中しくしくと痛く、薬を飲んでも改善されない。これは本格的に穴が開きつつあるのかもしれない。われわれはブラックホールの生誕に立ち会っているのです。われわれってなんだよ。脳内賢人会議か。 とりあえず、節制することに。コーラとか酒とか胃に刺激の強いものはできるだけ控えること。暴飲暴食を避けること。その他いろいろ。面倒くさいけど、仕方ない。 先日書いた「ぼくらは戦闘美少女に暴力をアウトソーシングし、それを馴致することで、ぼくらの暴力を隠蔽しながら行使する」という辺りの事柄についてなんだけど、なぜぼくらは(この場合に「ぼくら」とか使いたくないけど、自分の問題として引き寄せたほうがいだろう)罪の意識を抱いてまで少女に暴力をアウトソースし、玩弄し続けなければならないのか、というところで少し詰
■[理論]ゼロ年代の本当の想像力・3 「強いきみと強いぼく」という想像力 ■参考リンク『ゼロ年代の本当の想像力・2 「きみとぼくの物語」の誕生と実態』http://d.hatena.ne.jp/SuzuTamaki/20070802/1186016784 ■1999年には、恋愛ゲーム(ギャルゲー、美少女ゲーム)というジャンルにおいて、『ときめきメモリアル2』および『Kanon』という、恋愛ゲーム史に残る2つの名作が生まれた。その意味で1999年は特別な年であり、その後に続くゼロ年代は、この1999年の恋愛ゲームからある種の影響を受けて成立した。このことは、「2」において説明したとおりである。 ■どのように影響を受けたか。それは、1995年の『エヴァンゲリオン』あるいは当時の様々な社会状況によって作り出された「引きこもり」思想の中で、社会などの中間項と共に「他者」が信じられなくなった物語受容
べつにレポートの要請があるわけもなく、ただ漫然とものを考えています。なんてゆうか、レポートの課題でさらっと作りました、っていってサッとこうゆうのを提示すると、意見と人格が切り離されてしまう。ほんとはこんなこと真剣には考えてないけど、課題だから、確信犯的に二項対立やダサい近代的思考を駆使してこんなんつくってみました。ってなスタンス。そうすると、これ以外にも豊穣な思考の地平をもっているような、この図表以外の世界も視野に入ってます感が演出できる。それはとても知的にみえる。そうゆうのはやめようと思う。ぼくが生きてきた中でかんじたたいていのことは、この図の中に収まっている。あなたがこの図表をみてかんじたことが、わたしというつまらない人間への評価なのだ。 以下メモ; ■イデオロギーとは、コミュニティをアーキテクチャより優先させる「理由」。イデオロギーはすでに失われており、その「失われた」ということ
id:CAXさまより……って発言(「スレイヤーズが好きだった10代の僕を、どうやって肯定すればいいんですか!」引用者注)は前島賢のものだったのか。まあ自分は『スレイヤーズ』の本編は未だに読んだことがないから(アニメは観たけど)、肯定も否定も寛容も嘆きも出来ないので、その発言の意味する本意もよく判らないんだけど、なにが理由でそんなにトラウマっぽく感じているのかはちょっと知りたい。小説版の『スレイヤーズ』には、それほどまでにトラウマになるような衝撃のストーリーがあったりしたのかな?http://d.hatena.ne.jp/CAX/20060531/zaregotoなんて質問(?)をいただいた。こういう「なんで俺にとってライトノベルは重要なのか」的な自分語りに1万語ついやすよりも、マジメに(特に誤字脱字のチェックをな!)書評を書いたりするほうがよほど有意義なものになると思うのですが、一応、反応
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