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フーコーに関するsakstyleのブックマーク (10)

  • 『カントの人間学』ミシェル・フーコー - ラブラドールレトリバー撫でたい

    『カントの人間学』はフーコーが博士号取得のための主論文として書いた『狂気の歴史』と一緒に提出された副論文であり、カントの『人間学』を読解したその軌跡には後のフーコーのテーマが既に内包されている――。 ……と概要は非常に魅力的なんだけど、内容はなかなかに読み解きにくい。文は160ページちょっとしかなくてコンパクトにまとまってる読みやすいフーコー入門……という説明もたしかに一面においてはあってる。しかし中身が凝縮されすぎていて「そこもうちょっと詳しく説明入れてくれん?」となる部分が多々ある。 また、扱われているカントの『人間学』もあんまり読んだことある奴はいないであろう。日語で読むには全集しかないし、カントの解説書のたぐいもほぼ三批判書に終止するので。そういう面でも読みにくさがある。 ★★★ のテーマはシンプルと言えばシンプルである。要するに、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判

    『カントの人間学』ミシェル・フーコー - ラブラドールレトリバー撫でたい
    sakstyle
    sakstyle 2020/05/06
    「ある意味で、人間学とは慣用表現の総合研究のようなものだ。」
  • 『ミシェル・フーコー ―構造主義と解釈学を超えて』ヒューバート・L・ドレイファス, ポール・ラビノウ - ラブラドールレトリバー撫でたい

    この妹ブログですがハードル下げないとまったく書けないということがわかってきたのでもう少し割り切りの意識を心がけていきたいと思います。 ということでいつにも増して暇なので一生詰みそうだった崩し始めました。 ハイデガーとかはほっといてもそのうち読みそうなので、時節柄というわけでもないけど入門書くらいしか読んでなかったフーコーを選択。 『ミシェル・フーコー ―構造主義と解釈学を超えて』ヒューバート・L・ドレイファス, ポール・ラビノウ 厚いだけあって内容は濃くて面白かった。厚いというか重い。そして文2段組。 内容はフーコーのほぼ全キャリアが外観できる論考。フーコーがまだ存命中だった1983年出版で、論では『性の歴史Ⅰ』までの範囲が扱われている。日版のみの附論としてフーコー自身の小論や没後に書かれた著者らの評論がある。 レベルは高く、最低でも構造主義と現象学の基礎知識がないとたぶん読めない

    『ミシェル・フーコー ―構造主義と解釈学を超えて』ヒューバート・L・ドレイファス, ポール・ラビノウ - ラブラドールレトリバー撫でたい
    sakstyle
    sakstyle 2020/04/20
    “著者は考古学がフッサール現象学に対応するとすれば、系譜学はハイデガーの解釈学(現象学・存在論)に対応するとしている。”ドレイファスってフーコーの本も書いてるのか
  • 東京大学教育学部教育学特殊講義「統治と生の技法」 - shinichiroinaba's blog

    そもそも学問としての、そして近代人の基礎教養としての西洋政治思想史にはれっきとした「流」というものがあって、そこにはボダン、マキアヴェッリ、ホッブズ、ロックといった名前が大きく刻み込まれていて、中心的なテーマはまずはいわゆる「宗教改革」以降の「絶対主義」とともにやってきた「主権国家」であり、その主旋律に対する最も重要な変奏として「自然状態」による「契約説」が絡む。そしてそれら全体を支配する通奏低音は結局のところ「法」である。――このようなイメージがある。 それに対して、「人種」「民族」あるいは「階級」といった、何と言ったらよいのか、生身の人間たちの形成する社会的な集団の問題は、西洋政治思想史においてあくまで「傍流」としてのみ扱われてきたのではないか。また聞きであるが、生前の福田歓一は「政治思想史はヘーゲルで終わり、そのあとは現代政治学になる」との趣旨の発言をしていたそうで、実際彼の教科書

    東京大学教育学部教育学特殊講義「統治と生の技法」 - shinichiroinaba's blog
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    sakstyle 2009/11/13
    西洋政治思想の本流は「主権」「契約」「法」、「民族」「階級」「人種」は傍流/内政policeに対して家政oeconomey=人口を扱う。経済の語源。フーコーは統治をこの意味で使う。
  • 前期フーコーと後期フーコーの区別について気がついたこと 〜概念の哲学の中の科学哲学と政治哲学の区別について〜 - retrosectionblog

    最近フーコーについて気がついたこと 〜概念の哲学の中の科学哲学と政治哲学の区別について〜 今まで、『知の考古学』以後のフーコーの方針転換をどのように理解するべきかでだいぶ迷ってきたが、次のように考えると筋が通る。 1.『知の考古学』までは、エピステモロジーの哲学および方法論に対して強くこだわっていたし、その範囲の中での拡張(特に人間科学への適用)を考えていたが、それ以後においては、このこだわりはある意味で捨てられているように見える。 2.この「ある意味で」というのをどのように理解するかということをこれまでかなり迷ってきた。今まで検討してきたのは、1.エピステモロジーを捨てて、ある別の哲学へと進んでいった。2.あくまでエピステモロジーの範囲にとどまって仕事をしていた。しかしこのいずれの選択肢も、事実との整合性が取れない。前者の場合、方法論があくまで言説分析であり、考古学的手法が否定さ

  • エラー|Ameba by CyberAgent [アメーバ]

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    sakstyle 2008/07/21
    抵抗が体制に回収されてしまうことを怖れるな。回収されることこそが、闘争のプロセスである。
  • フーコー講義録をここまでもってきて読む - shinichiroinaba's blog

    というのはいかがなものか。 ミシェル・フーコー講義集成〈6〉社会は防衛しなければならない (コレージュ・ド・フランス講義1975-76) 作者: ミシェルフーコー,Michel Foucault,石田英敬,小野正嗣出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2007/08/01メディア: 単行 クリック: 36回この商品を含むブログ (30件) を見るミシェル・フーコー講義集成〈7〉安全・領土・人口 (コレージュ・ド・フランス講義1977-78) 作者: ミシェルフーコー,Michel Foucault,高桑和巳出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2007/06/01メディア: 単行 クリック: 35回この商品を含むブログ (32件) を見る 続きの『生政治の誕生』の翻訳が遅れてるようですが、いつごろ出るんでしょうか。英語の方もまだです。 この辺り、ことに後者と邦訳未刊の続きは例の「統治性

    フーコー講義録をここまでもってきて読む - shinichiroinaba's blog
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    sakstyle 2008/07/19
    「主権」「契約」「法」周りが政治思想の本流、「民族」「階級」などは傍流であり社会学。で、経済学は? フーコーにとっては民族も経済も「人口」というテーマの変奏だが。
  • 「『生』政治」に関して手持ちの文献 - カフェオレみたいな日記   黒いのと白いのと甘いのと

    アウシュヴィッツの残りのもの―アルシーヴと証人 人権の彼方に―政治哲学ノート 残りの時 パウロ講義 ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生 例外状態 涜神 アウシュヴィッツは終わらない―あるイタリア人生存者の考察 (朝日選書) 死と愛――実存分析入門 厚生省の誕生―医療はファシズムをいかに推進したか 健康帝国ナチス 現代思想2006年6月号 特集=アガンベン 剥き出しの生 出版社/メーカー: 青土社発売日: 2006/05メディア: ムック クリック: 7回この商品を含むブログ (16件) を見る知への意志 (性の歴史) 臨床医学の誕生 精神疾患とパーソナリティ (ちくま学芸文庫) 生命の認識 (叢書・ウニベルシタス) 正常と病理 (叢書・ウニベルシタス) 生命科学の歴史―イデオロギーと合理性 (叢書・ウニベルシタス) 結晶と煙のあいだ―生物体の組織化について (叢書・ウニベルシタス) 科学

    「『生』政治」に関して手持ちの文献 - カフェオレみたいな日記   黒いのと白いのと甘いのと
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    sakstyle 2008/05/31
    生政治から生物学(医療)哲学文献リスト。
  • 書籍出版 双風舎:【連載】「思想の死相」 - フーコーの思想を読む

    「人間の終焉」とは何か? 前回はデリダのエクリチュールに付きまとう「死」の問題について考えてみました。今回、取り上げるフーコーもまた、ある意味、「死」の思想家だといえます。彼は、近代の前提となっていた「人間」をめぐる、生き生きしたエクリチュールが終焉する可能性を示唆しています。その主著『言葉と物』の末尾のほうで、ニーチェの「神の死」とからめて、神を殺してしまった「最後の人間」の運命について、彼は以下のように述べています。 彼は神を殺したのだから、みずからの有限性の責任をとらねばならぬのは彼自身であろう。しかし、彼が話し思考し実存するのは神の死においてであるから、その虐殺そのものも死ぬことを余儀なくされる。新しい神々、おなじ神々がすでに未来の大洋をふくらませている。人間は消滅しようとしているのだ。神の死以上に――というよりはむしろ、その死の澪のなかでその死とのふかい相関関係において――ニーチ

    sakstyle
    sakstyle 2008/04/19
    の「人間の終焉」についてのまとめ。/「人間性(humanitas:フマニタス)」というのは、教養という意味になり、人文学という意味に転じた/マルクス主義・サルトルとフーコーの対立の話や、ニートロンダンへの批判も
  • 構造主義について考える3 - 生きてみた感想

    構造主義について考える1(http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070425#p1) 構造主義について考える2(http://d.hatena.ne.jp/voleurknkn/20070426#p1) 前回の末尾で、フーコーと構造主義との関係を考える際には、言語/記号というものの位置に注意を向けるのがいいのではないか、ということを書きました。今回はその理由を書いていこうと思うます。 ところで、構造主義という思潮は、人文科学という言葉と強く結びついています。おそらく構造主義の流れについてまとめたもっとも浩瀚な書物であるフランソワ・ドッスの『構造主義の歴史』の訳者あとがきで、訳者が「人文科学」という言葉の系譜について説明していましたが、構造主義というのは、いわゆる人文知といわれる領域に科学性を確立しようとした運動である、という性格ももっています。のちにソーカル

    構造主義について考える3 - 生きてみた感想
    sakstyle
    sakstyle 2007/05/02
    構造主義→世界を制限・構成する有限なマトリックス(言語(能力))について考える/フーコー→そのマトリックスからアクチュアル化したもの(言語(運用))について考える
  • 2007-04-30

    id:finalvent氏が「混同」として指摘されてきた部分については、その指摘が要求している「精度」が意味をもつ議論の水準は当然存在するのでしょうが、この「シリーズ」で考えようとしている物事の水準ではそこは大雑把にやって問題はないだろうというのがまずあって、とするといわゆる「空気嫁」的な対応になってしまうかと思いきや、そうでもありません。氏の「指摘」のおかげで今日は浅草で映画を観ながらいろいろ考えることができたので、その点は感謝です。 まず、エートスとしての構造主義と原理としての構造主義というのをわける必要がある、ということに今さらながら気付きました。乱暴にまとめると次のようになるでしょう。 ● エートスとしての構造主義=「参照先としての人間の乗り越え」 ● 原理としての構造主義=「関係性のネットワークに準拠した科学的厳密性の確保」 この両者というのはおそらくさまざまに入り組んでおり、た

    2007-04-30
    sakstyle
    sakstyle 2007/05/02
    チョムスキーの政治的活動と研究が切り離されてる理由
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