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諏訪哲史に関するsakstyleのブックマーク (7)

  • ■[レヴュー]諏訪哲史『ロンバルディア遠景』 2009-05-03 - 感情レヴュー

    諏訪哲史氏の『ロンバルディア遠景』(「群像」2009年5月号)は見事に期待を裏切らないものでした。一ファンとしては、エンディングで「明後日」(もちろんアサッテ!)が記されたときにはぞくぞくっとしたものです。「明後日だ。僕はふたたび旅に出る」。 図式的に整理すると、前作『りすん』で試みられた直接話法の対話連鎖を、叙述(書記)のレベルで徹底させたような構成になっています。だから『りすん』を経由して、デビュー作『アサッテの人』を書き改めたとも言うことができるでしょう。『アサッテの人』のメタフィクション性を回避するために『りすん』の試みがあったということです。 つまり、『アサッテの人』では、不在の人をめぐって叙述が連ねられる結果、どうしてもメタフィクションの構造を持たざるをえなかったわけですね。文体を変換するなど複雑にすればするほど、逆にそれが目立ってしまった側面があったとさえ思う。それにくわえ、

    ■[レヴュー]諏訪哲史『ロンバルディア遠景』 2009-05-03 - 感情レヴュー
  • 絶対安全文芸時評 第17回スペシャル・ヴァージョン(「スタジオボイス」連載) | エクス・ポ日記

    【先月の十編】(順不同) 「やさしいため息」青山七恵(文藝春号) 「走ル」羽田圭介(文藝春号) 「かもめの日」黒川創(新潮2月号) 「ペンギンたちは会議する」高橋順子(文學界2月号) 「溶けない」藤野可織(文學界2月号) 「殺人者の夢」安達千夏(すばる2月号) 「長い終わりが始まる」山崎ナオコーラ(群像2月号) 「聖書の煙草」田中慎弥(群像2月号) 「鹿の目」吉村萬壱(群像2月号) 「怪訝山」小池昌代(群像2月号) 【今月の十編】(順不同) 「見返りキメラ」青山真治(新潮3月号) 「鮒のためいき」戌井昭人(新潮3月号) 「あなたたちの恋愛は瀕死」川上未映子(文學界3月号) 「冬蛇」瀬戸良枝(文學界3月号) 「りすん」諏訪哲人(群像3月号) 「ピロティ」佐伯一麦(すばる3月号) 「ナカムラ・パラレログラム」吉原清隆(すばる3月号) 「マミヤ6」中沢けい(すばる3月号) 「ソードリッカー」佐藤

    絶対安全文芸時評 第17回スペシャル・ヴァージョン(「スタジオボイス」連載) | エクス・ポ日記
    sakstyle
    sakstyle 2008/05/19
    の「りすん」と岡田利規「三月の5日間」の比較(リテラルとオーラルの違い)
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    来年も作りたい!ふきのとう料理を満喫した 2024年春の記録 春は自炊が楽しい季節 1年の中で最も自炊が楽しい季節は春だと思う。スーパーの棚にやわらかな色合いの野菜が並ぶと自然とこころが弾む。 中でもときめくのは山菜だ。早いと2月下旬ごろから並び始めるそれは、タラの芽、ふきのとうと続き、桜の頃にはうるい、ウド、こ…

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  • 現代批評の一分(3)――テクストと! - 感情レヴュー

    殺人事件の謎に萌えるのか、名探偵のキャラに萌えるのか。いや、ていうか、多分これはそんな複雑な問題じゃなくて、ミステリーは単に『面白いから』、生まれて、はやって、今もなお生きているんだと、僕はそう思いたいものです。『不気味で素朴な囲われた世界』「後書」西尾維新 僕たちはこの時代に諏訪哲史や川上未映子といった作家が登場したことに驚いているわけだけれど、そういう時代にぼくたちが小説を読めることにもっと驚いていいと思う。 もうすでに彼ら抜きの文学史など考えられないような気がするのだが、たとえば芥川賞の選考があんな(http://d.hatena.ne.jp/sz9/20070223)だった時代からはまだ一年もたっていないのだ。 もちろん、最近期される文学の変革の(遅すぎる?)予兆として芥川賞のここ数ヶ月にわたる変化があるのかもしれないが、芥川賞の選考委員に、いささか脱保守革新寄り(?)の異動があっ

    現代批評の一分(3)――テクストと! - 感情レヴュー
    sakstyle
    sakstyle 2008/03/12
    「エンターテイメントとしてのテクスト!」たる川上、諏訪。哲学的考察とエンターテイメントの両立。物語批判と物語への欲望に引き裂かれてきた90年代の作家とは、一線を画する新しい文学
  • ■[レヴュー]「りとぅん」注解 - 感情レヴュー

    承前*1 前回、「りすん」と比べて前作の『アサッテの人』をじゃっかん否定的に説明したが、もちろんそんなことはない。議論の必要上、そのような説明をしたにすぎない。前作と作の対比で、前作が否定されるべきではないのだ。 僕が言いたかったのは、作「りすん」と比べて前作に反アサッテ的側面が見える角度があるということである。逆に言えば、見方・比較の仕方によっては、作の方が反アサッテ的に見える場合もあるだろう。このことは、作「りすん」で、前作との関係を徹底して自註・自解してみせる諏訪哲史氏には自明である。 重要なのは、アサッテを到来させるべく、前作が文字の記述から音声的側面を炙り出そうとしたとすれば、作は音声のやり取りから文字的側面を炙り出そうとしている、ということであり、この二作を鏡のように突き合せてみると、音と文字の間でくるくる回るように、叙述にいかなる根拠も置かない諏訪氏の実にメタフィク

    ■[レヴュー]「りとぅん」注解 - 感情レヴュー
    sakstyle
    sakstyle 2008/02/25
    アサッテ的効果をもくろむ効用の問題として、漢字と仮名、文字と音声、それらのアンサンブルによって構成された日本語の言語体系を最大限に利用しているのである/物語の悲喜劇と(...)形式の悲喜劇
  • ■[レヴュー]りとぅん- 感情レヴュー

    1980年代*1に骨髄癌で死んだ母と同じ病にかかり、その「死に至る病」の反復におびえる朝子。自分の母は、白血病という、世間的に「紋切型」の死を遂げたのだった。ひょっとするとこの私も、母の反復を運命的に生かされているのではないか。彼女はそのような不安のもと、(自身も出生後4年間いた)中国を出自とする母の履歴を調査し追わずにいられない。 諏訪哲史の最新作「りすん」(「群像」3月号)を、とりあえずそのような――「紋切型」の物語批判的な――物語として要約することは可能だが、より形式的にみると、前作『アサッテの人』をふんだんに引用してみせるこの作品は、前作のテーマを正しく引き継いだ、メタフィクション(の作為性)批判の書でもあることは注意していい*2。 むろん前作と同様、単に外部からメタフィクションを批判するのではなく、表現の作為なりメタフィクションは避けられないというスタンスからなされる、きわめて内

    ■[レヴュー]りとぅん- 感情レヴュー
    sakstyle
    sakstyle 2008/02/25
    はあざとい作為性に対する批評意識は明確であり、エンターテイメントとしても優れたものである/会話には、つねに得体の知れない何ものかがある。/朝子にきっとGodたるゴドーが現われる
  • 小説の言葉、アサッテな言葉 - 感情レヴュー

    私たちにとっての小説家・佐藤友哉の魅力は、まず何より、エンターテイメント(ライトノベル)と純文学の間でどっちつかずの優柔不断な問いを延々と重ねるところである。しばしば魅力的だと評される、彼の自意識過剰な「地声」も、エンターテイメントというか「まんが・アニメ的」(大塚英志)な物語設定とキャラ設定があってこそ映えるのであり、前者による後者への暴力的な介入が両ジャンルからの批判を喚起しつつも無視できない存在として魅力を放ち続ける要因なのだし、逆に、「まんが・アニメ的」な各種設定も、彼の自意識過剰過剰な「地声」あってこそ映えるのであり、前者のフィクショナルな環境に組み込まれた後者の軽さと過剰さと凶暴性が両ジャンルからの批判を喚起しつつも無視できない存在として魅力を放ち続ける要因なのである。 そして佐藤氏を評価する難しさの原因もおそらくここにあるだろう。彼に対して評価がなされるとき、一方のラノベなり

    小説の言葉、アサッテな言葉 - 感情レヴュー
    sakstyle
    sakstyle 2007/10/15
    『1000の小説とバックベアード』と『アサッテの人』比較
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