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反意図主義に関するsakstyleのブックマーク (9)

  • ありがとうございました(概念の更新について少しだけ) - あなたのkugyoを埋葬する

    optical_frogさんへの再々応答:虚構かそうでないかを決めるには - kugyoを埋葬する 上の記事について、id:optical_frogさんからお返事をいただいています: ひとまず最後のお返事として - left over junk 7月ちゅうにはなんとかお返事をしようと思っていたのですが、こちらの事情でずれこんでしまいました。ブログの記事なんてボトルメールのようなもので、時間的隔たりなど関係ない、という立場もあるかと思いますが、いままでの議論を追いかけてくださった方々のためにも、ひとことお詫び申しあげたいと思います。 なお、optical_frogさん同様、私もこの記事でひとまず応酬は区切りとしてよいかな、と思っています。これから述べる内容は、ひとつは“芸術作品”という概念の更新に関する(私にとって)未解決の問題についてですし、もうひとつは無限後退にまつわる私のアイデアを放棄

    ありがとうございました(概念の更新について少しだけ) - あなたのkugyoを埋葬する
    sakstyle
    sakstyle 2008/08/05
    芸術作品はコミュニケーションではありえないと/ある物理的対象が芸術作品として受容されることもあればコミュニケーションとして受容されることもある
  • ひとまず最後のお返事として - left over junk

    テキストの理解と意図にかんしてしばらくkugyoさんと会話を続けてきました.ぼくの方からはとくに書くことがなくなったので,差し障りがなければ今回のお返事で一区切りつけたいと思います. 以下,このエントリでは,kugyoさんが「optical_frogさんへの再々応答:虚構かそうでないかを決めるには」で書かれた2点について返信をします. 1. 「けっきょく、コンパニョンは間違っている」について 繰り返しになりますが,作者の意図を考慮せずにテクストを解釈できるという主張は,「できる」という部分に限定を加えないかぎりは自明で意義のない主張です.次のkugyoさんのご発言も,「原理的には」正しいと思います: 原理的には、横書きの日語で書かれたテクストを縦に読んだり(縦読み)、日語として読まずに何らかの絵画として解釈したってかまいません(アスキーアート)。逆に言えば、絵画(の文字のように読める部

    ひとまず最後のお返事として - left over junk
    sakstyle
    sakstyle 2008/07/19
    お二人の会話には、大変勉強させていただきました。ありがとうございました。お疲れ様です。
  • optical_frogさんへの再々応答:虚構かそうでないかを決めるには - あなたのkugyoを埋葬する

    id:optical_frogさんからお返事をいただきました: 「応答」未満のお返事:やっぱりたんなる論理的な可能性では足りないと思います - left over junk 論点は「実用論的汎反意図主義」と名づけた私の立場の意義、そしてそれへの対案としてのoptical_frogさんの立場の妥当性の検討に移ってきたと思います。以下、2項に分けて、応答したいと思います。 まとめ(A)について けっきょく、コンパニョンは間違っている 分析哲学のよき伝統のひとつに、相手の主張をより妥当な形に仕上げたうえで、それでも反駁が可能であることを示す、というのがあると思っています。そこでここでも、optical_frogさんの診断どおり、コンパニョンの主張を以下のようなものだとひとまず考えることにしましょう: バージョン 2:実際的な必然性として,テクストの理解において参照される発語内意図が猿やキーボード

    optical_frogさんへの再々応答:虚構かそうでないかを決めるには - あなたのkugyoを埋葬する
  • 「応答」未満のお返事:やっぱりたんなる論理的な可能性では足りないと思います - left over junk

    kugyoさんから「再応答」をいただきました: optical_frogさんへの再応答:なぜ他者の意図(意識)は常に虚構(見なし)なのか 以下,これについてお返事を. 同意できていること kugyoさんが提示されている「実用論的汎反意図主義」をめぐって,ウェブ上で会話を続けてきました.主観的には,わりとキャッキャウフフな感じでお話しできているような気がしています.これまでの流れはkugyoさんがまとめてくださっているので,そちらを参照してください. まず,この「実用論的汎反意図主義」とは,ぼくなりに要約すると次のような主張です: ある発話について,(a)その発語内の意図はつねに虚構であり,かつ,(b)誰にでも/何にでも帰属させることが可能である;(c)ただし,通常は“プラグマティックな理由”により特定の誰かに帰属される. kugyoさんご自身の書き方ですと,次のとおり: そうしたければ反意

    「応答」未満のお返事:やっぱりたんなる論理的な可能性では足りないと思います - left over junk
    sakstyle
    sakstyle 2008/07/09
    その主張に意義があるかどうかは、「たんなる論理的可能性と,より限定された実際的な可能性」の区別にかかっているー
  • optical_frogさんへの再応答:なぜ他者の意図(意識)は常に虚構(見なし)なのか - あなたのkugyoを埋葬する

    optical_frogさんへの応答:実用論的汎反意図主義(汎テクスト論)の立場から - kugyoを埋葬する 上記の記事について、id:optical_frogさんよりお返事をいただきました。以下の記事です: kugyoさんの「応答」への応答 - left over junk このような議論がブログ間で成立しているのはとてもうれしいことです。optical_frogさんは現在もご活躍中の研究者の方とお見受けしますが、そうした方を相手に私が議論できるというのは私にとってありがたいことですし、この議論が虚構論を含む何らかの学に貢献するということにでもなれば、さらに望外の幸運というべきでしょう。 私の拙い論考に対し、2度も反応してくださったoptical_frogさんの懐の広さと、そもそも議論を成立させてくれている(分析)哲学の伝統とに、特に感謝を示したいと思います*1。おかげさまで、ずいぶん

    optical_frogさんへの再応答:なぜ他者の意図(意識)は常に虚構(見なし)なのか - あなたのkugyoを埋葬する
  • kugyoさんの「応答」への応答 - left over junk

    おとついのエントリ「kugyoさんへの提案:文/発話および現実/虚構の意図を区別すると便利です(多分)」に対して,kugyoさんから応答 (1) と応答 (2) にわけて丁寧なリプライをいただきました: 「optical_frogさんへの応答:実用論的汎反意図主義(汎テクスト論)の立場から」 こちらから一方的に提案をしたにもかかわらず,こうして応答を書いてくださり,感謝します. 以下,この「応答」について思うところを記します. まずは,あらためて確認事項を:ぼくはkugyoさんの主張の方向に同意しています.ただ,それを支える論証にはいくぶん難点があり,あらたに「文/発話」といった概念的な区別を導入すると有益ではないかと考えています.今回のこのエントリでも,若干の問題点をあらたに指摘したいと考えます. では,応答 (1) と (2) を順番にとりあげていきましょう. 応答 (1) について

    kugyoさんの「応答」への応答 - left over junk
    sakstyle
    sakstyle 2008/07/02
    文の意味ではなく発話の意味を考えよ。意図の帰属が恣意的であるのはトリビアルに真、実際の発話の状況においてはどうか。そして、言語行為論へ
  • optical_frogさんへの応答:実用論的汎反意図主義(汎テクスト論)の立場から - あなたのkugyoを埋葬する

    首尾一貫性に基づく作者の意図の擁護、を論駁する(『文学をめぐる理論と常識』について) - kugyoを埋葬する 上記の記事について、id:optical_frogさんより、論証に問題点があるとの鋭いご指摘をいただきました。以下の記事です: kugyoさんへの提案:文/発話および現実/虚構の意図を区別すると便利です(多分) - left over junk 今回はこのoptical_frogさんの「提案」について、応答させていただきたいと思います。optical_frogさんの「提案」とは、次のようなものです: 「反駁(2)」での例が言語ではなくて似顔絵なので,主張が十分に支持されない→“言語を例に議論しよう” 一般に文の成立に話し手の意図は不要 発話に関しては話し手とその意図を考えなくてはいけない→“文/発話を区別しよう” 場合により,発話の意図は虚構のものであってもかまわない→“現実の話

    optical_frogさんへの応答:実用論的汎反意図主義(汎テクスト論)の立場から - あなたのkugyoを埋葬する
    sakstyle
    sakstyle 2008/07/01
    蟻による似顔絵やサルによる文は、フレーゲ的なSinnは分かるがBedeutungは分からない/意図の帰属先は恣意的。
  • kugyoさんへの提案:文/発話および現実/虚構の意図を区別すると便利です(多分) - left over junk

    2008-07-01追記:案の定,下記の文章にはずぼらな点がありました.kugyoさんが指摘してくださっていますので,そちらもあわせて参照願います. id:kugyoさんがとても思考を喚起する文章を書いておられます: 「首尾一貫性に基づく作者の意図の擁護、を論駁する」 - kugyoを埋葬する 2008-06-30 この文章は,アントワーヌ・コンパニョン『文学をめぐる理論と常識』*1を批判しつつ,「私たちは作者の意図を想定することなしに、文学テクストを読むことが可能である」という主張を論証するものです. この主張はおおむね正しいとぼくも思いますが,論証に問題点が2つあります: ひとつめ.「反駁(2)」で論拠として提示している例が言語ではなくて「チャーチルの似顔絵」という視覚表現であること. ふたつめ.文と発話(文の個別的使用例)が区別されていないこと. これら2つの問題があるため,kugy

    kugyoさんへの提案:文/発話および現実/虚構の意図を区別すると便利です(多分) - left over junk
    sakstyle
    sakstyle 2008/06/30
    http://d.hatena.ne.jp/kugyo/20080630/1214765519への補論。絵と文の区別、文と発話の区別、受け手が発話をどう見なすかの区別。
  • 首尾一貫性に基づく作者の意図の擁護、を論駁する(『文学をめぐる理論と常識』について) - あなたのkugyoを埋葬する

    文学をめぐる理論と常識 作者: アントワーヌコンパニョン,Antoine Compagnon,中地義和,吉川一義出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2007/11/27メディア: 単行購入: 2人 クリック: 43回この商品を含むブログ (15件) を見る アントワーヌ・コンパニョン『文学をめぐる理論と常識』第2章は、このの他の章と同じく、「作者の意図を探ろうとする文学解説派と、作品の意義を記述しようとする文学解釈派」(p.45より)の対立を調停し、「その一見いさぎよい二者択一からは、実態は見えてこない。真実はおそらく、両極端の中間にある」(p.311、訳者あとがき)ことを示そうとした章である。ところで、私はがちがちのテクスト論者であり、もし「どんな文学研究でも、意味を保証してくれるものとして、作者の意図を暗黙裡に想定している」(p.101)ことが示されたというのなら、私にはそれに反

    首尾一貫性に基づく作者の意図の擁護、を論駁する(『文学をめぐる理論と常識』について) - あなたのkugyoを埋葬する
    sakstyle
    sakstyle 2008/06/30
    文学テクスト読解に作者の意図を勘案する必要はあるか、いやない。パトナムの「蟻によるチャーチルの似顔絵」の話などをひきつつ。
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