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ハイデガーに関するsakstyleのブックマーク (8)

  • 門脇俊介『破壊と構築 [ハイデガー哲学の二つの位相]』 - Repeat The Ending

    門脇俊介氏はハイデガー研究者であるが、人も述べているように、ハイデガー哲学をアクチュアルなものとして分析哲学や認知科学との対話に多くの労力を費やしてきた異端のハイデガー哲学者である。その信念と研究活動はアメリカの哲学者ドレイファスやローティと多くを共有していてそれは書を開いて最初のページに書かれている、 「ヒューバート・L・ドレイファス教授と亡きリチャード・ローティ教授に捧げる」 という言葉にも表れている。 ・ローティ、ドレイファス、ハイデガー アメリカの有力大学の哲学科ではデカルトやヒューム、カントは分析哲学の祖先だとみなされているのに、ハイデガーやフッサールはデリダと並んで「大陸哲学(continental philosophy)」として別扱いされている。そんなアメリカ哲学界でハイデガーの哲学の意味が少しでも認知されてきたのはドレイファスやローティに多くを負っている。 リチャード・

    門脇俊介『破壊と構築 [ハイデガー哲学の二つの位相]』 - Repeat The Ending
    sakstyle
    sakstyle 2011/01/05
    カルナップ、ライル、認知科学とハイデガーとの関係
  • ハイデガーにおける論理学と形而上学? - 呂律 / a mode distinction

    出版準備中の、ついに「あとはほぼ あとがき だけ」というところまで来てたんだけど、たった4000字書くのにひと月かかっちゃったよ。 追記:その後、4月に発売されました:ISBN:4779503140 (紹介ページ)おかげでこの間ほとんどなにも手についてない状態。 全方位的にあれこれ滞っていてもうどうしようもない。いろんなみなさま ほんとにごめんなさい。 というわけで、そろそろあれこれ再開しようと思うんですが、まずはちょっとリハビリもかねて、蒼龍先生のこのエントリを dissってみようかな、と思います: ハイデガーにおける論理学と形而上学 http://d.hatena.ne.jp/deepbluedragon/20081115/p1 なぜこのエントリを取り上げようと思ったかというと、蒼龍先生のブログの読者は 認知科学に関心のある人たちだろうから。 認知科学に関心がある人なら その教養リス

    ハイデガーにおける論理学と形而上学? - 呂律 / a mode distinction
  • ハイデガーにおける論理学と形而上学 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    理性を解明し規定することが正当に且つ必然的に《論理学》と呼ばれるかぎり、西洋的な《形而上学》は《論理学》であるとも言える。存在者たるかぎりの存在者の質は、思惟の視圏のなかで決定されるのである。 ハイデガー「ニーチェ ヨーロッパのニヒリズム」isbn:4582761844.78-9より カテゴリー論と形而上学の関係 ハイデガーの大きな問題点は、科学と技術を安易に同一視しているのと同じように、論理学と形而上学をも一緒くたにしてしまうことだ。この場合、形而上学とはアリストテレス的なカテゴリー論のことであり、トマス・アクィナス経由で西洋哲学が受け継いでる思考法でもある。実際にハイデガーは(若き時分にブレンターノの論文で出会った)トマス・アクィナス的なアリストテレス理解への批判を出発にしているところがある*1。ところで、カテゴリー論とは何か。カテゴリー論とは物事をカテゴリーに分類する議論のことだ。

    ハイデガーにおける論理学と形而上学 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
    sakstyle
    sakstyle 2008/11/17
    ハイデガーの言うところの形而上学批判は無茶なのだ/未だにハイデガーの科学技術批判を素直に真に受けてる人を見るとうんざりしてしまう
  • 『ハイデガーの思想』木田元 2- Where Sweetness and Light Failed

    後期のハイデガーは特に難解であることで知られるが、著者は後期の思想に対しても短いながらも的確な解釈を行っている。 この捧げるということの意味は、思考のうちで存在が言葉になって現れるということにほかならない。存在こそ言葉の住居である。 (202) 人間のとってすべてのものが「言葉」のうちに現れる。言葉は存在の住まいであり、ゆえに私たちは言葉を通ってこそ存在者に到達することができる。森に行くときは「森」という言葉を通って森へと行くし、泉に行くときは「泉」という言葉を通って泉へと行く。仮に「森」「泉」という言葉を思い浮かべなかったとしても、視点は「森」「泉」という文節によって「森」や「泉」の存在を見出す。 人間は存在の住処である言葉を通ってこそ、初めて存在へと行き着くことができるのである。言葉が分節を行うことで、「私」は個々の存在に触れるのである。言葉は人間のコミュニケーションの手段でもなければ

    『ハイデガーの思想』木田元 2- Where Sweetness and Light Failed
    sakstyle
    sakstyle 2008/01/08
    人間は存在の住処である言葉を通ってこそ、初めて存在へと行き着くことができるのである。言葉は人間のコミュニケーションの手段でもなければ、人間が専ら主体的に用いるものでもない。
  • 『ハイデガーの思想』木田元 - Where Sweetness and Light Failed

    ハイデガーの思想 (岩波新書) 作者: 木田元出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 1993/02/22メディア: 新書購入: 6人 クリック: 50回この商品を含むブログ (36件) を見る 二千五百年に及ぶ西洋の文化形成の原理を批判的に乗り越え、<生きた自然>の概念を復権することによって文化の新たな方向を切り拓こうとするその意図を、「血と大地」に根ざした精神的共同体の建設というナチズムの文化理念に重ね合わせて考えようとした、あるいはナチズムを領導しておのれの文化理念に近づけうると夢想した、その心理は理解できるように思うのである。 (197) 第7章「ハイデガーとナチズム」より引用。 ハイデガーにとってのギリシア哲学がどのようなものか、簡潔に説明がなされていて勉強になった。ニーチェもハイデガーも(ラヴジョイも)、プラトン・アリストテレス以降の西洋の形而上学を総体的に捉え、その形而上学の

    sakstyle
    sakstyle 2008/01/08
    ハイデガーがサルトルを批判したのは、彼が「本質存在」と「事実存在」との優劣を逆転させただけで依然としてこの区別に拘泥しているからだという
  • はいでっげる先生 - 微空間 ―森 元斎の部屋―

  • 蒼龍のタワゴト-評論、哲学、認知科学- - 用いられている概念の整理と基礎付け問題

    宮台ブログの記事(http://www.miyadai.com/index.php?itemid=430)に関連して、使われている概念を整理をしてみました。 何が人間的かは結局は合意手続き(正統性)の問題だが、何が人間かは全ての前提たる自明性(正当性)の問題だと。 複雑な社会における正当性の複数性を調停する正統性は、暗黙の自明性の共有の上にあったが、過剰流動性ゆえに自明性が揺らぐと、途端に何が自明かを巡る正当性が浮上してくる 正当性justifiability-正統性legitimacyと、何が人間的か(Quality of Life)-何が人間か(Sanctity of Life)*1と、が同じ対立なのは分かる。 分岐点は〈世界〉の根源的未規定性を〈社会〉的表象(の境界)に結合するか(後期ロマン派)否か(前期ロマン派)にある。監督はよく心得ていた。またもや悩ましい「境界線」問題だ。超越論

    蒼龍のタワゴト-評論、哲学、認知科学- - 用いられている概念の整理と基礎付け問題
    sakstyle
    sakstyle 2006/11/23
    正統性/正当性、前期ロマン派/後期ロマン派、ハイデガー、反基礎付け主義
  • エロフィギュア&エロ漫画 レビュー 【乳之書 】

    ⇒悪の組織でサクセス! 乳魂の痛快出世巨乳フェチ小説、『揉ませてよオレの正義2』! 2013年5月17日発売! アマゾンで予約中! ⇒原作者自らのノベライズ『巨乳ファンタジー2』発売! 2012年9月28日発売! ⇒なぜ、アニメや漫画は表現規制を受けるのか? なぜ、オタク腐女子は叩かれるのか? そこには、性と資主義の問題が横たわっている。婚活オタクの問題はつながっているのだ。表現規制が全国的に強化されようとしている今こそ必要な、オタクのための知的防衛。 存在論的、郵便的 1983年、『構造と力』。 1998年、『存在論的、郵便的』。 そして、2006年。なぜ今更だが、敢えて今なのだ。 『構造と力』を引っさげて浅田彰が思想界のスターとなってから15年後。新たなスターに思想界は沸いた。 東浩紀である。 『存在論的、郵便的』は、著者が東京大学在学時、わずか23歳から26歳の間に処女作とし

    sakstyle
    sakstyle 2006/11/02
    『存在論的、郵便的』のレビュー・解説。ハイデガーのあたりがわかりやすかった
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