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ウィトゲンシュタインに関するsakstyleのブックマーク (36)

  • 【文献案内】ウィトゲンシュタイン哲学のバックボーンを望む——19世紀末ウィーンの知識人|Saori Makino

    最終更新日:2023/7/6 ウィトゲンシュタイン哲学の背景と言えば、フレーゲやラッセルなど、初期分析哲学と呼ばれる人たちの哲学がよく連想されます。しかし、ウィーンの知識人や文化・学問からの影響(また反対にそれら「への」影響)も無視できません。この文献リストは、特に後者からの/への影響にスポットを当てるためのものです。ウィトゲンシュタインの遺稿には、前期・中期・後期すべての区分において、ウィーンの学問からの影響が見受けられます。ごく一部を取り上げるとしても、前期ウィトゲンシュタインの著作『論理哲学論考』に登場する「論理空間」という言葉は、ボルツマンに由来すると言われています。前期-中期ウィトゲンシュタインの遺稿『哲学的考察』には、マッハの空間概念からの影響が見られます。さらに、晩期ウィトゲンシュタインのいわゆる「心理学の哲学」と呼ばれる一群の考察には、ブレンターノの弟子・エーレンフェルスに

    【文献案内】ウィトゲンシュタイン哲学のバックボーンを望む——19世紀末ウィーンの知識人|Saori Makino
    sakstyle
    sakstyle 2023/07/12
    ウィーンの知識人からウィトゲンシュンタインへの影響について論じた文献の紹介/「初期20世紀航空学との関係から『論考』を読む試み」って何だ/「オーストリア哲学」「オーストリア・モダニズム」
  • 古田徹也 “このゲームにはゴールがない ──ひとの心の哲学” - three million cheers.

    このゲームにはゴールがない ――ひとの心の哲学 (単行) 作者:古田 徹也筑摩書房Amazon 言語哲学のアプローチで「心」というものに迫る。 心身問題や他我問題などさまざまな難題を孕む「心」というものに対して、「心とは何か」という問いよりも、そもそもその「心」という語・概念で何を意味しようとしているのか、それはコミュニケーションの実践のなかでどのように用いられているものなのか、という問いから考えていく。 「心」にまつわる懐疑論は言語的混乱に基づくのであって、まずそれらを整理するべきだというアプローチをとる。ただそうした「混乱」は理論の失敗というより、むしろ悲劇と見るべきであって、「心」というものが「虚偽」や「振り」を含みながら日常のコミュニケーションの実践のなかで扱われるあり方が生の価値につながっている──という内容。 主題 「他者の心を確実に知ることは果たして可能なのか」という他我

    古田徹也 “このゲームにはゴールがない ──ひとの心の哲学” - three million cheers.
  • 古典をもっと、ずっと開かれたものに【古田徹也『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』インタビュー】 | カドブン

    『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考 (シリーズ世界の思想)』 古田 徹也 定価 1944円(体1800円+税) 発売日:2019年04月26日 哲学の問題すべてを一挙に解決するという、哲学史上最高度に野心的な試み『論理哲学論考』。現代哲学を代表する必読の書とされる一方で、その文は非常に難解であると言われています。 そこでオススメしたいのが、発売後すぐに「解説が丁寧」「わかりやすい」と大きな評判をよんでいる『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』。 このたび、この画期的な入門書を書かれた古田徹也先生に、書の執筆においてどんな苦労や工夫があったのか、さらに、『論理哲学論考』の魅力についてもうかがいました。 ●『論理哲学論考』はなぜ難しいのか──ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(以下『論考』)は、20世紀以降の哲学に圧倒的な影響を与えたとして知られています。今回古田さんは、原文に即

    古典をもっと、ずっと開かれたものに【古田徹也『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』インタビュー】 | カドブン
  • 古田徹也 “ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考” - three million cheers.

    ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考 シリーズ世界の思想 (角川選書 1003 シリーズ世界の思想) 作者: 古田徹也出版社/メーカー: KADOKAWA発売日: 2019/04/26メディア: 単行この商品を含むブログを見る 概要 ウィトゲンシュタイン前期の思想を示す重要文献『論理哲学論考』の全文詳解。(実際にはいくつか論から離れた個所は省略されているので「全文」ではないが) 『論考』の1節から最後の7節まで順を追って解説している。 『論考』には、全文が番号付の節でできているという特徴がある。 基幹となるのは次の7つの文章。 世界は、成立している事柄の総体である。 成立している事柄、すなわち事実とは、事態の成立のことをいう。 事実の論理像が、思考である。 思考とは、有意味な命題のことである。 命題は、要素命題の真理関数である。(要素命題は、自分自身の真理関数である。) 真理関数の一般形

    古田徹也 “ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考” - three million cheers.
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    sakstyle 2019/05/27
    「『論理哲学論考』の全文詳解」「随所で例示が用意されているのがわかりやすい」
  • 『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇』はスゴ本

    ウィトゲンシュタインののなかで、これが最も分かりやすい&面白い(当社比)。 数学という存在を、人の知性の産物である「発明」と捉える人がいる。いっぽうで、人が見出した世界の質である「発見」と見なす人がいる。この議論は、[『神は数学者か』はスゴ]にて語ったが、いずれの場合にせよ、数学の限界が(仮に)あるとしたならば、それは人の理性の限界であることは了解していただけるだろう。なぜなら、「発明」であれ「発見」であれ、主語が人である限り、その限界も人に属するからである。 ウィトゲンシュタインの講義は、数学の限界を見極める一方で、数学の底(もともとの了解事項)を明らかにしてくれる。 数学の底? そんなのユークリッド幾何学やヒルベルトの基礎付けを見るまでもなく、「定義」と「形式」でしょうに(あるいはそこから定義づけられる公理系といってもいい)。書を手にするまでは、そう考えていた。だが、「発明」で

    『ウィトゲンシュタインの講義 数学の基礎篇』はスゴ本
    sakstyle
    sakstyle 2018/02/19
    受講生にチューリングがいてウィトゲンシュタインと丁々発止している、と。
  • 読書メモ - うつし世はゆめ / 夜のゆめもゆめ

    つづくかどうかわからないが読書メモをとることにした。 最近の関心 - 自己知識 - 他人の心 / 独我論 - 懐疑論 * Lewis, David, 'Attitudes De Dicto and De Se' -http://philpapers.org/rec/LEWADD 読んでいなかったので読んだ。 命題的態度について、(1)命題をつかってうまくいく場合は、性質でもうまくいく。(2)命題でうまくいかないのに性質でうまくいく場合がある、ということで、性質をつかった態度の理論を推す。 途中の2人の神の思考実験がすばらしい。世界に2人の神がおり、2人の神の内、ひとりは最も高い山の上でマナを投げつづけている。もうひとりは最も寒い山の上で稲を投げつづけている。ふたりとも全知なので、この世界で成り立つすべての命題を知っている。しかしなお彼らには、まだ知らないことがある。彼らは、自分が2人の内

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    sakstyle 2011/07/09
    論文いくつかについて/D・ルイスのDeRe態度とDeSe態度について/ムーア言明と懐疑論の話「正当化とか蓋然性の観点で2つの命題を区別するものがないならば合理性の観点で2つの命題の地位がこれほどに異なるのはなぜなの」
  • ウィトゲンシュタイン『美学、心理学および宗教的信念についての講義と会話』 - Repeat The Ending

    この文章は、『論考』を自己批判した後、言語ゲームといって謎めいたテクストを書き始めた【後期】ウィトゲンシュタインが世界の意味や美や宗教についてかなりまとまった形で述べている唯一の資料*1。 しかし、最近日でも流行しつつある「分析美学」のような「美とは何か」「神とは何か」といった形の美学、宗教論を求めると肩透かしをらう。ウィトゲンシュタインの狙いは美的表現や宗教的表現の行われる状況そのものを示していくことにある。暗闇の中で慎重に手探りで進んでいく、そんな感触。 身振り、声の調子などは、この場合是認の表現なのである。何がこの語を是認の発露たらしめるのか。それはこの語がその中で現れてくるゲームなのであって、ことばの形式ではないのである。 心理学者たちのしていることと芸術についての判断との間にはいかなる結びつきもあるようには見えない。われわれはどのような種類のものごとを美的判断の説明と呼ぶのか

    ウィトゲンシュタイン『美学、心理学および宗教的信念についての講義と会話』 - Repeat The Ending
  • 火掻き棒事件をめぐる〈熱い〉[=厚い]記述

    火掻き棒事件をめぐる〈熱い〉記述 On Thick description of Wittgenstein's poker 【事の発端】5W1Hふうに書くと……(これは薄い記述である←→厚い記述) When: 1946年10月25日 Where: 英国のケンブリッジ大学キングスカレッジ・ギブス棟H階段3号室(H3号室)、モラルサイエンスクラブという研究会の席上で Who: ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(LW)とカール・ ポパー(KP) What: 「哲学の諸問題はあるか」というテーマをめぐって両者が口論をした How: LWが火掻き棒をいじった後、部屋を出ていった Why: ——〈議論したい我々の疑問〉—— 【KPによる記述】 「自分(KP—引用者)は、ほんとうの哲学の問題だと信じる問題をいくつか提起した。だがウィトゲンシュタインはあっさりとしりぞけた。そ して『自分の主張を強調した

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    sakstyle
    sakstyle 2009/12/16
    『ハイエク、ハイエクを語る』ハイエクがウィトゲンシュタインについて語っている。
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  • 前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#5 独我論 - 知識の積み木 - 楽天ブログ(Blog)

    前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#5 独我論 [ 心の哲学 ]     前回、論理空間の真理操作によって事態に対応する複合命題が構成されることを見た。そして、これで、事実から事態という可能性の領域へどのように立ち戻るかが判明したことになる。これが『論考』の根幹をなす議論であり、これが「語りえるもの」の領域を確定する。そして、ここから独我論を仲介して、自我、論理、倫理という「語りえぬもの」の領域の議論へ至る。 6、独我論:論理空間の基底で発見した「私」について ↓ 7、論理:論理空間における操作 ↓ 8、倫理:実践的な領野 6、独我論(solipsism)(5.6 〜) 事実に対応する命題から名を切り離す過程で言語が私秘性に覆われていることを発見する。そして、言語を「私の言語」とすることにより、存在論的な独我論へ至る。 6−1、私的言語論(言語は私の言

  • 前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#3 単純な命題とは - 知識の積み木 - 楽天ブログ(Blog)

    前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#3 単純な命題とは [ 分析哲学 ]     4、要素命題(elementary propositions) 要素命題は要素的な事態に対応するもっとも単純な命題である。また、事態は相互に独立であるため、要素命題もまた相互に独立である(※1)。そして、要素命題に論理定項を用いて他の要素命題と結合することによって我々が普段見慣れている命題(複合命題)になる。それにはまず事実に対応する複合命題から要素命題に至る必要がある。しかし、Wは日常言語における命題というものをラッセルが考えるもの(※2)よりもっと複雑なものであると考え、完全に分析することは不可能で、我々は決して要素命題にたどり着けないと言う。なぜか。 4−1、要素命題の到達不可能性 例えば、「ソクラテスの弟子達は師に会いに行く」という命題は、「プラトンはソクラテスに会いに行く」と「クセ

  • 前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#1 可能性の探求 - 知識の積み木 - 楽天ブログ(Blog)

    前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#1 可能性の探求 [ 分析哲学 ]     『論考』の目的(the Tractatus) ウィトゲンシュタイン(以下W)の『論理哲学論考』(以下『論考』)は、七つのテーゼとそれを補佐する複数の命題の集まりで構成されてる。そして、タイトルが「論理哲学」なのに最初に提示される命題が「世界は成立していることがの総体である」といった存在論的命題からいきなり始まる。まず、これは何を主題としているのだろうか。それは序文にかかれている:「およそ語りえるものについては明晰に語りうる、そして、論じえぬものについては沈黙しなければならない。かくして、書は思考に対して限界を引く」。『論考』の目的は思考の限界の探求であり「語りえぬもの」と「語りえるもの」の峻別である。またそれによって伝統的哲学的問題である倫理、芸術、形而上学などを「語りえぬもの」、つまり真偽を問うこ

  • 前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#2-1 写像と命題 - 知識の積み木 - 楽天ブログ(Blog)

    前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#2-1 写像と命題 [ 分析哲学 ]     思考の可能性を見出すために、事実を対象に分解し、それらを再結合して事態を構成する必要があることをみた。しかし、現実の対象を組み合わせて新たな事実を作ったのでは、それは現実性であって可能性ではない。そのため、Wは先の存在論的な議論を離れ、2.1からは、どのように我々が事実や対象と関係をもっているかという議論、つまり、事実の写像、思考、言語などの議論に移る。 写像理論(picture theory) 現実性である事実から可能性を見出すには、事実の代替手段が必要となる。それが現実の像(独Bild, 英picture, image)である。我々は、事実を写像することによって事実の(観念的な)模型として像を作る(そして、この事実の模型としての像もまたひとつの事実である)。そして、何かを理解するということは

  • 前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#2-2 ラッセルのパラドックス解消 - 知識の積み木 - 楽天ブログ(Blog)

    前期ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」#2-2 ラッセルのパラドックス解消 [ 分析哲学 ]     ラッセルのパラドックスとタイプ理論要約 まず始めに、ラッセルのパラドックスとそれのラッセル自身による解決法であるタイプ理論を簡単にまとめてみる。ラッセルのパラドックスとは「自らを含まない集合」は自らを含むか否かという問題である。含む、含まないのどちらを適用しても、その反対が帰結してしまう、単純でそしてそのため難解なパラドックスである(ラッセルはこれを嘘つきのパラドックスと同一の源泉をもつ自己言及のパラドックスと考えた)。そして、ラッセルは解決法としてタイプ理論を提唱する。それは、言語に階層を設けるというものであり、これを適用することにより自己言及的な命題は消滅し、したがってパラドックスも生じない。具体的には、関数「F(x)」において変項xに自らを代入すると「F(F(x))」と自己言及

  • ポッドキャスト 今道友信先生の新教養講座「世界の古典・名著を読む」

    中央公論新社で開催されている今道友信先生の哲学講座「世界の古典・名著を読む」の模様を、 iTunesやiPodなどのプレーヤーで聴けるようにPodcast/MP3形式で配信しています。 東京・京橋の中央公論新社で開催されている、 今道友信先生の新教養講座「世界の古典・名著を読む」 4月からの開講のお知らせです。 毎月1回の講義(約1時間半)×3回で1冊の名著・古典を読む新教養シリーズ。 4月からはじまる新シリーズでは、プロティヌス『エネアデス』を読みます。 講座名:今道友信先生の新教養講座「世界の古典・名著を読む」 テキスト:プロティヌス『エネアデス(抄)』I・II(中公クラシックス) 講師: 今道友信 東京大学名誉教授・哲学美学比較研究国際センター所長 開講日程: 2008年4月19日(土曜)午後1時30分〜 (約90分間) 2008年5月

  • モノクロ珈琲 : 『知覚の呪縛』に関するメモ

    珈琲とモノクロ写真渡辺哲夫の『知覚の呪縛』(西田書店)を読みながらのメモ。どういった書物かというと、Sという分裂病患者(今なら統合失調症患者というべきか)の病態の報告と、それに関する著者の考察である。 Sの症状は極めて興味深い。端的には、Sにとっては知覚され、現前するものは「ワラ」と呼ばれるニセモノであり、S自身は「ワラ地球」というおかしな場所に入れられたと感じている。そして「オトチ」と呼ばれる当の場所に帰りたいと切望している。哲学者バークリーの有名なテーゼ"esse ist percipi"(存在とは知覚されることである)のちょうど裏返しになっている。Sにとっては、知覚され、現前することこそが非存在の最たる特徴なのである。 著者は、読み手がいささかイライラするくらいに慎重にSの世界の在り方を分析していこうとする。まだ読んでいる途中なのだが、現在進行形の今のうちに、自分なりの感想や仮説を

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    sakstyle 2008/11/29
    分裂病、独我論
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    sakstyle 2008/11/02
    「皆に言ってください、私の人生は素晴らしかったと。」/「幸福な人が恐れを抱くなどということがあってはならない。たとえ死を直前にしても。」「時間の中にではなく、現在の中で生きる人のみが幸福である。」
  • モノクロ珈琲 : 形而上学の必要

    最近、形而上学づいている。形而上学の必要と書いたけれど、これは言葉足らずで、意としては次のようになる。自らが暗黙裡のうちに立脚している形而上的・存在論的立場を「自覚」することの必要である。意識は脳が生み出しているという脳科学者も、数学者も、あるいはコンピュータ・プログラミングを生業とするSEも、ありとあらゆるすべての人が、実はある形而上学・存在論の上で思考している。こういう言い方はフロイトの「すべての背後には性的抑圧が~」みたいな胡散臭さがあるが、現にそう思うのだからしょうがない。 実は僕は存在論という言い方のほうが好きなので以後、こちらに基的に統一する。しかし、形而上学という言い方もいかめしくて古風で、これはこれで好きなのだが。 普通、自分がそれに乗っかっている存在論は意識されない。とりわけ、自然科学者はそうした傾向が強いようだ。それには意味があって、自分が立脚している存在論を自覚し

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    sakstyle 2008/10/06
    哲学に可能なのは、存在論の解消ではなく、ある哲学説がいかなる存在論に基づいているかを指摘し、その存在論に対立する別の存在論を教えてあげることなのだ。
  • モノクロ珈琲 : 『言語哲学大全Ⅰ』に関するノート

    珈琲とモノクロ写真今回の那須滞在の主目的は、飯田隆『言語哲学大全』のシリーズを腰を据えて読むことである。読みながら思った疑問などをメモ風に。 第2章フレーゲ的意味論の基礎において、「意味の心象説」批判が取り扱われているが、僕にはしっくりこない。飯田はウィトゲンシュタインの批判が決定的だ、とするが僕にはあまりそうは思えないのだ。そのひとつの論拠は、解釈の解釈の解釈…という無限後退に陥るから、という以上の域を出ていない。また、赤い色を想像せよ、という命令においては単にその命令がナンセンスだという応答ではいけないのであろうか。意味の心象説に立つならば、赤という語によってある心的イメージが喚起される。赤い色を想像せよ、という命令は、既にそれは成されてしまっているがゆえに命令としては意味がない。僕は意味の心象説を信じるわけではないが、意味の心象説に対する批判がそれ程有効に機能しているともあまり思えな

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    sakstyle 2008/10/06
    公共的な言語ゲームという話は明らかに論点先取である/コミュニケーションの場面では消滅してしまう私秘性に対する感度