衝撃をもって受け止められた、阿部幸大氏による「教育と文化の地域格差」に関する論考「『底辺校』出身の田舎者が、東大に入って絶望した理由」。「地方には、高等教育を受ける選択肢や機会そのものが不可視になっている層が少なからず存在する」という問題提起は、多くの読者の共感を得ると同時に批判をも呼び、議論はなお収まらない。 膨大な数にのぼる反響をふまえて、続編をお届けする。 ぜひ最後まで読んでほしい 前回の記事が想像以上に大きな反響と議論を呼んだため、本稿は連載形式をとることになった。さしあたり今回は、前回の記事に対していただいた反論や疑問に応答する。 反応はあらゆる媒体にわたって膨大な数にのぼっており、とてもすべてに目を通せたわけではないが、以下では、とくに重要だと思われるいくつかの指摘をピックアップして、できる範囲でお応えしたい。リアクションの総括には「現代ビジネス」編集部の担当者も協力してくれた
名門校出身者たちを目の当たりにして 教育と格差の問題といえば、しばしば話題にのぼるのが東大生の親の年収である。2014年の調査によれば、東大生の育った家庭の半数強が、年収950万円以上の比較的裕福な家庭だという。 ここで問題視されているのは、階級の固定化である。つまり、裕福な家庭は多額の教育費を支払うことができるので、子供は高学歴化する傾向にある。学歴と収入は比例することが多い。結果的に、金持ちの家系はいつまでも金持ちだし、逆に貧乏人はいつまでも貧乏から抜け出せない――という問題だ。 だが、こうした問題提起に出くわすたび、いつも「ある視点」が欠けていると私は感じる。それは都市と地方の格差、地域格差である。 田舎者は、田舎に住んでいるというだけで、想像以上のハンディを背負わされている。 あらかじめ、どんな地域で育ったどんな人物がこの記事を書いているのか、簡単に紹介しておこう。 私は高校時代ま
―― どういうことですか。 飯田:資本主義と言うより、人間の活動というものは、必然的に格差を生むんだと思うんです。 または、私的所有は必然的に格差を生む、と言ってもいいと思います。共産主義という、私的所有そのものを規制する社会体制が存続不可能だと歴史が示した今、「資本主義は格差を生む」と言うよりも、「人間の活動は格差を生む」、と言った方が正しいのではないかと。 ―― なぜでしょう。 飯田:「蓄積」が可能になったからです。 例えば100万円を持っている人と1万円しか持っていない人の間で、じゃんけんで1万円を取り合うというゲームをしたとしましょう。1万円の人は一番最初の1回で負けたらそこで終わり、1回勝っても2回どこかで負けたらもう終わりなんですけれども、100万円の人はたぶん… ―― 100回のどこかで勝ちますわな、確率の問題なんだから、負けられる回数が多い方が有利に決まってる。 飯田:ひと
今も日本には貧困はなく、機会の平等もかなり担保されていると考えている人もいるのではないだろうか。しかし、データは静かにそれに対して疑問を投げかける。日本の貧困は、多くの人が思っている以上に深刻であり、それはゆっくりと、しかし確実に増えている。先日、「子どもにもっといいものを食べさせたかった」と書き置きを残して母と子が餓死するという痛ましい事件があったが、現状が続くのであれば、そういった出来事は今後も起こり続けるだろう。 今回は、データを基に日本の貧困の実情について見ていきたい。そして次回は、私自身がNPO(非営利組織)での活動を通じて見てきた実情も紹介しながら、日本で機会の平等がどの程度保証されているのかについて考えてみたい。 徐々に高まる日本の貧困率 経済協力開発機構(OECD)は定期的に先進国の貧困率を比較している。ここでいう貧困率とは、「等価可処分所得」の中央値の50%以下で暮らす人
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