何も信じられなくなってしまった時代に、デカルトの哲学が生まれた ――真理を扱う哲学は政治に関われないとなると、じゃあ哲学って何ができるんだ、と思ってしまうのですが……。 國分 アーレントは本当にすぐれた哲学者ですが、今言ったような理由から哲学の歴史に対して批判的でした。だから彼女は「自分は哲学者ではない、政治学者だ」と言ったりしています。アーレントが「哲学は真理を扱う」と言った時には既にそこに批判の意味が入っているわけです。僕自身は「哲学は真理を扱う」という命題は半分正しいけれども、半分間違っていると思っています。というのも、哲学は漠然と真理を考えているわけではないからです。「人間とは何か」とか「時間とは何か」とか、哲学は漠然とそんなことを考えているんじゃないんです。哲学は常に問題を考えているんです。突きつけられた問題に応答しようとしている。 たとえば僕の専門の17世紀の哲学者にデカルトが
日本国憲法が揺らいでいる。憲法解釈を大きく変更した安保法が国会で成立し、自民党はさらに改憲を目指す。その根底にあるのが「押しつけ憲法論」だ。だが日本国憲法がこれまで70年間、この国の屋台骨として国民生活を営々と守り続けてきたのも事実である。この連載では戦後70年、日本国憲法が果たしてきた役割、その価値を改めて考えたい。 第1回は日本国憲法がひとりの女性を救った物語である。 栃木県某市。その地域のことをどう表現すればいいのか、戸惑う。ちょっとした幹線道路と小さな道路に区切られた一角に団地が建ち並ぶ。辺りには民家と田んぼしかない。表現の手掛かりになるような特徴がなく、ぬるっと手から滑り落ちそうなところ。そんな地域が、日本憲法史上に特筆される裁判の舞台となった。 裁判の名前を「尊属殺重罰事件」という。日本で初めて最高裁判所が法令違憲の判決を下した事件といわれている。 事件は47年前の1968(昭
(この記事は、2005年6月23日にメールマガジン「Japan Mail Media」の連載「大陸の風-現地メディアに見る中国社会」第48号として配信されたものです。) 今回はかなり番外的な内容だが、北京にあるヨーロッパ系企業の駐在員として派遣されているドイツ人に話を聞いた記録である。 彼、ハンス氏は各国駐在員の中でもかなり年長の方に入るだろう。すでに本国にお孫さんもおり、本来なら悠悠自適の退職生活に入っているはずの世代である。その彼がちょっと健康に不安のある奥さんを本国において、言葉も通じない北京で単身赴任生活を送っているのは、「まだ働ける。まだ廃物にはなりたくない」からなのだそうである。 北京は体制的にも社会的にも習慣的にもまだまだ外国人に開かれた街というには程遠い。英語は堪能でも中国語が出来なければ生活の苦労は倍増、いや倍々増するはずなのだが、ハンスはなにやらここが気に入っているらし
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