バカな時間を共有した人間こそ「友だち」 たとえばの話、「友だち」という言葉を、単純に「親しく行き来している人間」と定義すれば、いま現在でも、十やそこらの顔を思い浮かべることができる。私も、若い頃に比べれば、多少は人当たりがよくなっている。で、日常的に交際している人々とは、おおむね良好な関係を保っている。つまり、私は、昔自分が考えていたよりは、ずっと社交的な中年男になりおおせているわけだ。 ただ、その、現在親しく付き合っている彼らを、私は、「友だち」であるというふうには考えていない。 親しみを感じないとか、好きじゃないということではない。好ましい人柄だと感じているからこそ行き来しているわけだし、何回か会ううちにはそれなりの親近感を抱いてもいる。 では、どうして彼らは友だちではないのか。 おそらく、バカな時間を共有していないからだ。 私の中では、「友だち」は、「愚行」とわかちがたく結びついてい